〜柴田勝家もドン引き!?猛将佐久間盛政戦記〜
皆さんは「猛将」というと誰を思い浮かべるだろうか。
まず浮かぶのは、柴田勝家や井伊直政、そして後藤又兵衛あたりだろうか。
いずれも当代随一武将であるが、「尾張随一である」 と『尾張武人物語』で評されている佐久間盛政(さくまもりまさ)の存在はあまり知られていない。
「有名人」柴田勝家の与力であったことも、影が薄くなってしまった一因なのかもしれない。
織田信長や柴田勝家も一目置いていたという「佐久間盛政」とはどのような武将だったのであろうか。
巨漢だった盛政
佐久間盛政は、1554年尾張国御器所に生まれた。
『佐久間軍記』によれば、長じては身の丈六尺(約182㎝)となったとある。
相当な巨漢だったらしい。
盛政は勇猛果敢な武将であったが、微笑ましい逸話も残されている。
『陳善録』によると、まだ18歳の頃のこと、前田利家の家臣村井長頼とともに敵将の首をとるという武功を挙げた盛政は、信長ではなく真っ先に叔父の柴田勝家に首を見せに行ったため、一番首の恩賞を信長からもらえなかったという。
信長の感状
その後、1575年盛政は柴田勝家の与力となり北陸に配属され、柴田軍の先鋒を任される。
盛政は一向一揆勢との戦いで目覚ましい戦功を挙げ、信長から感状を賜ったという。
信長の信頼を得た盛政は、1577年上杉謙信の南下に際して加賀に派遣される。
軍神と恐れられた謙信と対峙させるほど、信長は盛政を武将として高く評価していたことがわかる。
三度めの正直
1580年6月盛政軍と一向一揆勢は河合にて激突する。
鉄砲を駆使する一揆勢に盛政は苦戦し、二度の敗北を喫する。
さらには、1580年8月には、父盛次のいとこである佐久間盛信が信長から追放されるという一大事が起こる。
この際、盛政は信長への忠義を示すため、自ら蟄居したという。
もともと信長は盛政を処罰の対象にしていなかったようで、蟄居はすぐに解かれたという。
連敗や一族の不始末の渦中にあっても盛政はあきらめず、遂には謀略により鈴木出羽守をはじめとする一揆勢の首領19人を討ち取ることに成功したのである。
まさに「三度目の正直」である。
統率力を失った一揆勢を攻め立てて、11月盛政は一揆勢が籠城する鳥越城を見事陥落させる。
この一族の不名誉を雪ぐかのような活躍によって、盛政は加賀半国の統治を任されることになったのである。
鬼玄蕃
1581年柴田勝家、佐々成政、前田利家が京での馬揃えに参加するため北陸を離れると、上杉景勝は一向一揆勢と連携して加賀に侵攻する。
馬揃えに参加せず尾山城にて待機していた盛政は、「鳥越城と二曲城危うし」と知るや援護に向かうが、その途中でこれら二城は既に落とされていたという。
にもかかわらず、盛政は猛然とこの二城を攻め立てて、あっという間に奪還して見せたのである。
鬼神のような戦いぶりに敵味方なく畏敬され、官位の「玄蕃允(げんばのりょう)」に因み、「鬼玄蕃」と呼ばれるようになる。
『信長公記』ではこの活躍が「比類なき高名である」と絶賛されている。
さすがの柴田勝家も、この戦いぶりにはドン引きしたことだろう。
賤ヶ岳の合戦
1582年本能寺の変後、盛政は柴田勝家に従うようになる。
清州会議以降、羽柴秀吉と柴田勝家は次第に対立を深めるようになり、織田家中においても、それぞれに味方するものに二分する状況となる。
1583年4月勝家軍と秀吉軍が近江賤ヶ岳付近で激突する。
世にいう「賤ヶ岳の合戦」である。
織田信雄・滝川一益連合軍が美濃で挙兵したことを受けて秀吉が大垣城に入っていたタイミングを見計らって、盛政は大岩山砦の中川清秀軍に攻めかかる。
怒涛の攻めに砦は陥落し、清秀を討ち取ると、返す刀で岩崎山に陣取っていた高山右近に猛攻を加え退却させたのである。
賤ヶ岳の合戦の緒戦は柴田軍の勝利であった。
勝家はこの時点で盛政に深追いせずに撤退するように命じているのであるが、盛政はなぜか従わなかったという。
これは盛政の暴走によるもので、賤ヶ岳の合戦の大きな敗因とされることも多いが、私の見立ては少々違う。
おそらく、盛政は勝家の養子の勝豊までもが秀吉に寝返ったのを見て、自軍の武将にも秀吉の調略の手が伸びている可能性があると踏んでいたのではないだろうか。
軍勢の数で劣っていた柴田軍が勝利するには、戦の中核にいる羽柴秀長など大物を討つことで相手の勢いを削ぎ、寝返りを抑止する以外にないと考えていたのかもしれない。
しかし、この目論みは丹羽長秀の援軍及び秀吉の迅速な帰還により阻止される。
まさにその時、前田利家が戦線を離脱するのであるが、タイミングが良すぎるので、秀吉の策略ではないかと言われている。
これにより、柴田軍は総崩れとなってしまったのである。
敗れた盛政は加賀国へ落ち延びるところを、秀吉の追手に捕らわれてしまう。
死を覚悟した盛政は秀吉への目通りを希望したという。
秀吉の誘い
『川角太閤記』によれば、秀吉は盛政との対面において、自分の家臣になるよう再三にわたって説得したという。
九州征伐後には肥前を領地として与えるとまで言ったというから、相当に盛政を買っていたようである。
しかし、盛政はこれを頑として受け入れなかった。
死罪へのこだわり
秀吉は盛政の武名を惜しみ、武士の名誉である切腹を命じようとしたが、盛政は「敗軍の将である私には処刑が適当でございます」と聞き入れなかったと言われる。
秀吉は最後まで盛政に切腹させてやりたいと、あれこれ手を尽くしたが叶わず引き回しの上斬首された。
引き回しにされた件については、『川角太閤記』では「罪人として引き回されればありがたき仕合せでございます。さすれば秀吉殿の威光も高まるでしょう。」と言ったとされる。
あとがき
佐久間盛政の死後、その武名に感じ入りお家を再興しようとした人物がいた。
それは誰あろう、父中川清秀を盛政に討ち取られた次男秀成であった。
秀成は秀吉の命により盛政の娘虎姫を娶り、7人の子を儲ける。
秀成は虎姫同様、盛政を武人として尊敬していたため、虎姫の死後も佐久間家の再興に尽力したのである。
後にその尽力が実り、盛政の弟勝之の系統と虎姫の系統の二家が再興された。
(筆者・pinon)