安土桃山時代

織田信長とはどんな人物?した事やエピソードを簡単にわかり易く説明

織田信長(おだのぶなが)といえば、歴史なんて興味ない!って人でも名前くらい聞いたことはあるでしょう。

彼は、当時の争いが絶えない混乱した日本を、自分がトップになることで平和にしようと考えた戦国時代の武将です。

あと一歩で天下統一といったところで「本能寺の変」で、壮絶に死にます。

今回は織田信長の、した事や偉業について人物エピソードについて、簡単にわかり易く紹介していきますよ。

 

織田信長の偉業、何した人?

絵・織田信長

 

織田信長はつまり超凄い人なのですが、具体的に何した人なのでしょうか。

まずはその偉業をザックリと、簡単にわかり易く紹介してみます。

テストに出るような代表的なモノを並べてみると、

・楽市楽座の政策
・関所の廃止
・鉄砲を使った
・簿記の採用

などがあります。ひとつずつ紹介してみます。

 

1,楽市楽座の政策

楽市楽座(らくいちらくざ)で、安土城下の経済が発展しました。

当時は「座」という商人たちの組合のようなものがありました。この「座」のせいで、新しく商売を始めたい人たちがなかなか参入できなかったのです。

 

そこで信長は、この座」を廃止。

「座」の廃止で、市場を支配するめんどくさい人たちがいない。新しく商売を始めやすくなったので新規参入者も増えます。

さらに市場税といった税金も廃止。

商売する人たち、町の人たちは税金が少ない方が嬉しいわけですから、みんなでテンションがあがります。そして城下町も賑やかになります。どんどん町が潤います。

 

また信長は、「商人たちは安土城下の道路を使うこと」、「商人が泊まる場合には安土の地に宿泊すること」を義務にします。

そうすることで、安土の町でお金を使ってもらい、もっともっと町が潤うわけです。

これが成功し、安土城下の町を活性化させて、人々を集めました。

 

2,関所の廃止

関所の廃止で、通行や運搬をスムーズにすることによって経済が発展し、国が豊かになりました。

関所とは、道の要所要所にあった施設です。道を通る人から徴税をしたり検問をするためにありました。

いちいち徴税があったら気軽に移動したくないですからね。そのせいで物流を妨げ、運搬費がかさんで、物価が上がる。一般の庶民は困っていました。

当時の多くの関所は、それぞれ各地の領地が勝手に設置したものがほとんどだったそう。

通行税という名目でお金をとって、私腹を肥やしていただけなんですね。

 

信長はこの関所を廃止します。

さらに、歩きにくい道などは舗装して綺麗にしたり、川には橋をかけるなど、通行や運搬をスムーズにしたのです。

 

3,鉄砲をつかいだした

当時の最新兵器だった鉄砲を好んで戦に使用していました。

有名な「長篠の戦い」では、当時では異例の「鉄砲3000丁」も用意して武田軍に圧勝。

三段撃ちという戦法を実行したことは有名です。

 

4,簿記の採用

簿記を使用したことで、織田家のとても広い領土で、どこにどれだけ物資を輸送すればよいか把握することができました。

いまでいう単式簿記ですが、これによって正確な物流が掴め、数々の戦で功績をあげることができました。

 

のように、政治面でもとても優秀でした。

「天下統一を目指してたんだから戦がめちゃくちゃ強いんでしょ?」って事ですが、確かに戦は強いですが、信長はそれだけではなく、政治にもとても強かったのです。




信長の人物エピソード?

織田信長という人物にはやはり、数々の伝説があります。

その中でも有名なエピソードをできるだけ紹介していきますよ。

 

声がめちゃくちゃ高かった

超意外ですが、信長は声がとても高かったと言われています。なんかイメージと違いますが。

実際に信長に会った、ポルトガル人宣教師・ルイス・フロイスの遺した「日本史」という文献の記述をわかり易く訳すと、

「彼(信長)は背は高く痩せ型、髭は少ない、声は高くてよく通る、戦を好み、武術の修業を怠らず、名誉心強く、義に厳しかった。」

とのこと。

どうやら本当の事なようですね。

 

その伝説としては、

・500m向こうにいる信長の話し声が聞こえた

・信長が鉄砲発射の号令を叫ぶと、鉄砲足軽の耳は一時的に難聴になるが、それによって鉄砲の音が苦でなくなる

このエピソードは誇張してると思われますが、声が高かったのは本当のようですよ。

 

声のトーンが普段から高い人は、基本的にわがままで、自己中心的なところがある上、短気で興奮しやすいともいえるそうなんですよ。

でもそのくらいでなければ天下統一なんてできないでしょう。

 

庶民と凄くフレンドリー

身分の違いに関係なく、誰とでもフレンドリーで仲が良かったそうです。

庶民と一緒に踊っては、その汗を拭いてあげたり、工事をするときには、信長本人が現場監督として現場に姿を表していたそう。

庶民からは愛されていたのではないでしょうか。

信長が、一般庶民や武士たちと仲が良かったという記録は多く残されています。

上にも書きましたが、元々「尾張の大うつけ」といわれていた信長。

殿様の子で身分は高いですが、そうとは思えないようなラフな格好で町をプラプラしていたのです。

その時から、町のワルたちと並んで歩いたり、相撲などをして遊んでいたようです。

大人になってからも、町の庶民たちと踊ったり、工事をするときには信長自らが現場に姿を表したりなどしました。

身分にこだわらない性格が、とても信頼を集めたのではないでしょうか。

 

超ヤンキーだった?

「尾張の大うつけ」とも言われていた信長。

大うつけとは、「大馬鹿」「常識がない」「愚行ばかりする」者のこと。

そのやんちゃなエピソードは少年の時のものから残されています。

そのやんちゃぶりに、母は信長を愛そうとせず、弟ばかり愛していました。

 

信長の行動はまさに奇行の連続だったそうです。

・乳児の時は、乳母の乳首を噛み切った。

・殿様の子なのに、上半身裸でチャラチャラした格好で町を練り歩く。

・歩き方もだらしない。柿などを食いながら歩く。

・父の葬儀でも、異様な格好で遅れて登場し、焼香を位牌に投げつけそのまま去る。

などなど。

 

このように小さいときから破天荒で、クセの強い男の子であったと言われています。

当時は、礼儀正しさが重んじられていたため、本当に周りは「大うつけ」と言うしかなかったようです。

 

超努力家だった

まだ少年だった信長は、ふつうのモノより長いやりを作り、新しい戦法を発明しました。

周囲は、「これは信長が天才だからできたのだろう」と思い、そう言っていました。

しかし実際は、信長の計り知れないほどの努力の賜物なのだそう。

 

食べる時間、寝る時間はもちろん、あらゆるものを犠牲にしてこの研究に力を入れていました。

周囲からは、大うつけ(常識がない)と言われても気にせず、そういった後にこの長い槍戦法を完成させているのです。

少年のときからすでに、凄まじいパワーと行動力があったのですね。

 

人情に溢れ、心の優しい一面もあった

信長といえば、すぐ叩き切るひたすら怖い人のイメージがありがちですが、優しい一面もあります。

いまでいう関ヶ原町山中に「山中の猿」の呼ばれていた男が暮らしていました。

「山中の猿」は体に障害があり、道沿いで物乞いをしながら生きていました。

当時、この道を頻繁に通らなければならなかった信長は、この男を見かけては可哀想な男だと思っていたそうです。

 

ある時、信長は山中村の人々を集め、木綿20反を「山中の猿」に与えます。

そして「これを金に換えて、この者に小屋を建ててやれ。それから、この者が飢えないように毎年麦や米を施してくれれば、おれはとても嬉しい」と集めた人々に頼んだといいます。

この行動に「山中の猿」だけでなく、その場に居合わせた人々は皆、涙を流しました。

 

ポルトガル人宣教師ルイス・フロイスも信長を、「正義感と慈悲に関係あることは喜んで実行する男である。」と、素敵な男っぷりを讃えています。




「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」

有名な句として、

家康「鳴かぬなら鳴くまでまとうホトトギス」
秀吉「鳴かぬなら鳴かせてみようホトトギス」
信長「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」

がありますね。

これはまさに三英傑の個性を表した句です。

 

信長は短気で気性がはげしいタイプとされているのも、この句のイメージも大きいです。

まあ実際に激しかったのですが、激しいのは秀吉だって同じです。

家康だって温厚でおっとりしていたわけではありません。

こちらの記事で三英傑について、色々と比較しています。

>>>いろいろ比較!信長、秀吉、家康の関係、意外なエピソードとは?

俺は平家だ!と言い張った

信長は自分のことを「俺は平家の子孫だ!」と言い張っていたといいます。

これには理由があって、当時の歴史では、政治の実権を「源氏→平氏→源氏…」と交代して握っていた側面があったのです。

信長が天下統一を目指していた時代は平氏のタイミングだったので、彼は「何が何でもおれは平氏だ!」と、げんを担いていたのです。

 

そのため平家の代表といわれる「揚羽蝶(あげはちょう)」の家紋を好んで使いました。

>>>織田信長の家紋7つの意味、由来をそれぞれ簡単に説明

男とも愛し合う?

これは愛しあうというか「衆道」ってやつですね。

美男子を側においておくのがステータスな当時ですが、つまりゲイ的な行為も当時はごく普通にしていたようです。

織田信長もこれを嗜んでいたようで、有名なのが森蘭丸との関係なのではないでしょうか。

 

日本人で、初めてカステラを食べた人

信長は日本人で初めてカステラを食べた人なんだそう。

実は信長は酒を飲まず、周りにも酒をススメることは無かったといいます。酒によって隙を見せたくなかったからなのか、甘党だったからなのか。意外です。

ちなみにカステラの名前の由来は、当時スペインの「カスティーリャ王国」で作られたからなんだそうですよ。

 

にも、

  • 相撲好きで有名
  • 馬に乗るときに、片足を馬の背に乗せる癖があった
  • 娘が大好きでデレデレ。親ばか。
  • ほぼ全ての他人を「貴様」と呼んだ
  • 地球が丸いことを理解できた。

などなどのエピソードも残されているようです。

 

このように、学校で習った織田信長だけでは、語りきれない、人間くさい魅力がある人物だったのですね。

その魅力ゆえに、あの「本能寺の変」を仕掛けた明智光秀が、本能寺を襲うときには、中にいるのが織田信長だということを隠して奇襲をかけたという説もあります。

「本能寺の変」については、こちらの記事でわかり易く紹介しています。

>>>本能寺の変を簡単にわかり易く!織田信長と明智光秀の関係は?

まとめ

ということで、
織田信長とはどんな人物?した事やエピソードを簡単にわかり易く説明でした。

  • 信長は戦だけではなく政治面でも優れていた!
  • 大うつけと呼ばれ、傾奇者であった!
  • 冷血な男として語られることが多いが、人情に厚く優しい一面もあった!

 

最後まで読んでいただきありがとうございます^^

 

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