大正時代

5分で田中正造について!なにをした人?人物エピソードは?

田中正造(たなかしょうぞう)といえば、政治家ですね。

日本初の公害問題となった「足尾銅山鉱毒事件」の解決にむけて、生涯をかけて取り組んだ人物です。

今回、田中正造のかんたんな経歴人物エピソードについて、紹介していきますよ。

 

田中正造、プロフィール

名前:田中 正造(たなか しょうぞう)
出身地:下野国安蘇郡小中村(現・栃木県佐野市)
生誕:1841年12月15日
死没:1913年9月4日
享年:72歳(胃ガン)
時代:江戸時代~大正時代

 

かんたんな経歴、何した人?どんな人?

1841年、田中 正造(たなかしょうぞう)は、下野国安蘇郡小中村の名主(なぬし)の家に生まれました。

父・富蔵(とみぞう)と母・サキの長男で、幼名は兼三郎(かねさぶろう)と言います。

名主とは、農民の身分で、村の行政を担当する村長のようなみんなのリーダー的な立場です。

正造の家は、祖父の時代から名主となりました。

 

育熱心な両親の影響もあり、7歳のころに、儒学を教える赤尾小四郎の塾に入ります。

17歳で父の跡を継ぎ小中村の名主となり、23歳で大沢カツと結婚しました。

この頃、日本中が盛り上がった自由民権運動に参加しました。

 

1868年、領主の六角家の、江戸屋敷建設資金に関するトラブルが発覚すると、正造は村民を代表して抗議ました。

六角家は、幕府の儀式や祭礼を執り行なう、高家(こうけ)という役職の高い家柄で、当時は財政難に苦しんでいました。

六角家のために、名主をはじめ村民は、みんな貧しい暮らしを我慢していたにも関わらず、江戸屋敷建設に関連して、使途不明金が発覚したのです。

そしてそのせいで、「なまいきだ!」とのことで、正造は約10ヶ月間の投獄生活を送ることとなりました。

その牢獄は、縦横1mのせまい牢で、寝ることも立つこともできないという、とても過酷なものでした。

 

放後は、手習塾(文字の読み書き)を開きます。

そのとき、以前の塾の先輩だった織田龍三郎が、明治新政府の役人となっていたことから、彼に東京での勉強を進められました。

熱い思いで東京へと出発しますが、すでに織田は役人を辞めちゃっていて、勉強のあてがないまま4ヶ月が経過します。

 

1870年、東京にいる正造の元を、同じ下野国出身の早川信斎(はやかわ しんさい)が訪ねて来ました。

早川は、江刺(えさし)県(現・岩手県と秋田県の一部)の役人をしていて、正造は、江刺県花輪支庁の下級役人の仕事を紹介してもらいました。

しかし、翌年の1871年、今度は役所の上司であった、木村新八郎を殺そうとしたとして、殺人の容疑で逮捕されてしまったのです。

無実を訴え続けましたが、すぐに釈放されることはなく、獄中で書物を読み、西洋の政治や思想を熱心に勉強しました。

 

1874年、木村の息子の証言により無実が証明され、釈放されます。

正造のリーダー気質が、役人たちに受け入れられずに、無理矢理に犯人に仕立て上げられたのでした。

その後、地元に戻り、隣村で酒屋をやりだしました。

 

1878年、栃木県第4大区3小区の区会議員に選ばれ、政治家としての第一歩を踏み出します。

1880年には栃木県会議員となり国会開設運動や地方自治に力を入れました。

しかし、栃木県令(知事)の三島通庸(みしまみちつね)の暗殺事件関与が疑われ、逮捕されます。

同年12月に三島の人事異動に伴い釈放されました。

この暗殺事件は、加波山事件(かばさんじけん)といい、自由民権運動激化事件の一つです。

 

正造は、評判の悪かった三島通庸を栃木県から追い出したとされ、県民から大きな支持を得て栃木県会議長となりました。

そして1890年には、第1回衆議院議員総選挙に栃木3区から出馬し、見事当選を果たします。

 

してこの年、渡良瀬川(栃木県と群馬県の県境付近を流れる1級河川)で大洪水が起こったのです。

この大洪水により、上流にある足尾銅山から鉱毒が流れ出し、流域地域で稲が枯れたり農作物がまったく実らない事態が発生したのです。

川に入れば足が腫れ、井戸水を飲めば具合が悪くなり、乳幼児の死亡率が増えてしまったのです。

 

1891年、帝国議会に質問書を提出し、全力で足尾銅山の鉱毒問題に取り組みました。

しかし、正造の訴える鉱毒被害を明治政府は10年もの間、無視し続けたのです。

 

1900年、正造が訴えを続けても一向に改善されない状況に、被害を受けた農民の反対運動も激しくなり、農民と警官隊が衝突する「川俣事件」も起こります。

1901年10月、議員を辞職し、12月に明治天皇へ直訴しようとしますが、途中警官に取り押さえられ失敗に終わります。

この時、正造は「ああ、死んだな。」と腹をくくりますが、半日で釈放されました。

 

1902年、川俣事件公判中にあくびをし、重禁固40日の刑をうけました。

その服役中に聖書を読み、晩年の思想に影響を受けたとされています。

その後も、鉱毒問題の演説や、被害地域に堤防を作るなど活動を続けました。

 

1913年に胃ガンによりこの世を去りました。

葬儀の参列者は5万人とも言われ、正造の功績が称えられました。

 

ところで、経歴をかんたんに振り返ってみると、正造は悪くないのに3回も捕まっているのですね。

それだけ影響力があったってことなのです。(・∀・)

 




なにか人物エピソードはある?

中正造の人物エピソードについて。

ちょっとまとめてみましたよ。

 

・幼い頃

母・サキは、正造が幼い頃の性格を自己中のわがままなことを反省させるために、雨のなか外に放置しました。

さらに母は正造に「おまえはわがままだから近所の人に嫌われている」と告げると、正造はかなりショックを受け、更生したのだそうです。

 

・政治家としての第1歩を踏み出した時

1878年の区会議員選出の際に、沐浴をしました。

沐浴とは、水で体を洗い流すこと。この場合は、儀式的な意味でやったものでしょう。

そしてマニフェストを発表し、さらに周囲には赤飯を振る舞ったとされています。

正造にとっての政治家の第一歩は、神聖な儀式で始まったのでした。

 

・最期

正造が亡くなった時は無一文(財産ゼロ)で、手にした袋には、憲法、聖書、日記が入っていたとされています。

正造は財産の全てを、鉱毒問題に費やしていました。

「金は墓場まで持っていけない」なんて言いますが、「鉱毒問題」にすべてをかけた正造には、後悔は残っていないでしょうね。

 

・現代

2014年5月、今上天皇(平成天皇)が、正造の出身地の栃木県佐野市をご訪問なされました。

正造の明治天皇への直訴は叶いませんでしたが、その時の直訴状を御見学なされ、113年後に陛下の元に届くこととなりました。

 

まとめ

田中正造は、足尾銅山鉱毒問題解決に人生を捧げました。

先祖代々より命を育み、生まれ育った美しい景観が、鉱毒被害によって損なわれていく姿を目の当たりした正造は、「真の文明は、山を荒さず、川を荒さず、村を破らず、人を殺さざるべし」とも遺しています。

考えさせられますね。

 

ということで、
5分で田中正造について!なにをした人?人物エピソードは?でした。

 

最後まで読んでいただきありがとうございます^^

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りょーま(管理人)
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