マッカーサーの生涯を解説!カリスマだが対立も多かったGHQの総司令官

ダクラス・マッカーサーという人物について、その名を知らない日本人はいないのではないでしょうか。

略装でパイプをくわえる彼の姿や、昭和天皇と並んで撮られた写真は教科書レベルで最頻出と言っても過言ではなく、その人気も高かった人物です。

 

しかし、GHQに属する「日本の統治者」という側面ではない彼の姿については、その知名度ほど認知されているとは思えません。

そこで、この記事では史料や文献に基づく形で彼の生涯全体を解説していきます。

写真・ダグラス・マッカーサー

 

なお、「マッカーサー」という人物を「日本人」が評するという行為自体に、少なからぬバイアスが潜んでいるのは否めません。

そのため、中立的な文章を心掛けますが、立場的な問題はご了承のうえで記事をお読みいただけますと幸いです。

若かりし時から極めて優秀な人物として知られた

マッカーサーは、1880年に南北戦争で功を挙げたアーサーという人物の三男として誕生しました。

彼は生まれながらに戦場で育ち、家系や住居などの環境面から必然的に軍関係者への道を突き進んでいきます。

 

彼は西テキサスの士官学校を卒業後、アメリカ陸軍士官学校へと入学。

母に溺愛されていた彼はデートさえも監視されていたと囁かれるほどでしたが、その愛が実ってか学校を最優秀の成績で卒業し、陸軍の花形であった工兵隊での勤務を選択しました。

 

工兵隊におけるマッカーサーの成績は極めて優秀であると評価されましたが、恋愛にうつつを抜かしたことがキッカケで挫折を経験しました。

もっとも、この挫折で一念発起した彼は工兵隊のマニュアルを作成し、それが好評であったことなどから名誉挽回を果たしています。

また、1912年に父が亡くなっていますが、当時の陸軍参謀総長が父の部下として働いていたことでマッカーサーに目をかけ、それもあって彼は急速な出世を果たしていくことになるのです。

 

異例づくめの出世を果たすも、順風満帆とはいかなかった

第一次世界大戦に際しては、彼は急遽参戦が決まったアメリカ軍から自身が組織した「レインボー」師団を率い、果敢にフランスで戦い抜きました。

彼は指揮官ながらたびたび前線に顔を出したことから命の危機は少なくありませんでしたが、その貢献度は極めて高かったとされ、その証拠に彼は13の勲章を手にしています。

 

その後、陸軍士官学校の校長・少将への昇進・陸軍参謀総長への就任を果たしていきますが、そのどれもが最年少記録であり、まさしく「カリスマ」に相応しい出世を果たしたのです。

また、1933年からは副官としてアイゼンハワーを従えており、彼を見出したのはマッカーサーであるという見方もできます。

 

もっとも、世界恐慌の影響で軍縮が叫ばれ、彼自身も騒動の弾圧に失敗したことなどから行き詰まりを感じていたようで、フィリピン独立に際して破格の待遇でフィリピン軍顧問を引き受けました。

こうしてフィリピンにわたったマッカーサーは軍整備を企画しますが、その実態は資金不足により一向に進展を見せませんでした。

にもかかわらず彼が大規模な軍事パレードを企画したことでアイゼンハワーら部下と対立。

最終的に彼は大きな成果を残せずアメリカへ帰還しました。

 

第二次世界大戦開戦後はフィリピンの重要性が認識されたことにより、一時的に退役軍人の立場にあったマッカーサーは現場に復帰し、アメリカ極東陸軍司令官に任命されます。

彼が指揮するフィリピンには大量の支援が施され、それが原因で彼は自戦力を過信し慢心が発生したとされます。

 

太平洋戦争の開戦後は日本軍と対峙しましたが、空軍が何ら成果を上げることなく撃墜されたのを皮切りに追い込まれていき、最後は首都マニラからの撤退を余儀なくされます。

最後まで徹底抗戦の構えを見せていたマッカーサーは、脱出後のインタビューで「アイ・シャル・リターン(必ず私は戻るだろう)」と発言しています。

 

公約を果たしGHQの総司令官として人気を博したが、最後は失脚

1944年、ミッドウェーでの勝利や物量の絶対的な差から日本軍との戦況を逆転させたマッカーサーは、激戦の末フィリピンへの反抗作戦を見事成功させます。

こうして戦勝を決定的なものとしたアメリカ側はマッカーサーをSCAPの最高司令官として日本を訪れ、降伏文章への調印を済ませるとそのままGHQの総司令官に就任。

皆さんもご存知のように、日本国憲法の制定や様々な改革を通じて日本の民主化を主導していきました。

 

しかし、これらの手柄を手土産にアメリカ大統領選へと立候補したマッカーサーは惨敗を喫し、日本での熱狂とは裏腹に本国は彼に冷ややかな視線を送っていました。

その後、彼は朝鮮戦争の勃発とともに国連軍総司令官に任じられましたが、「中国や朝鮮半島の事情に明るくなかった」「米軍戦力を過信していた」「戦況を正確に分析できなかった」等の理由で苦戦を強いられます。

最終的にはかねてより対立していた大統領のトルーマンによって彼の解任が告げられました。

 

アメリカ帰国後は熱狂的な歓待を受けたものの、彼が大統領を目指す野心をむき出しにしたことでしだいに人気を失い、とうとうその座を手にすることはありませんでした。

それでも優雅な晩年を過ごしたマッカーサーは、最終的に1964年に84歳でこの世を去っています。

 

【参考文献】
『日本大百科全書』小学館
ジェフリー・ペレット『老兵は死なず ダグラス・マッカーサーの生涯』鳥影社、2016年。
増田弘『マッカーサー:フィリピン統治から日本占領へ』中央公論新社、2005年。
袖井林二郎『マッカーサーの二千日』中央公論新社、2004年。

(筆者・とーじん)