室町時代

竹中半兵衛を5分で!黒田官兵衛とは家紋でも関係が?

竹中半兵衛(たけなかはんべえ)といえば、「天才軍師」として有名ですね。

もう1人の軍師・黒田官兵衛(くろだかんべえ)と共に「両兵衛(二兵衛)」と称され、とても有名な戦国武将です。

しかし、2人は仲が悪いという噂があり、ライバル関係だったとか犬猿の仲だったとかいう、黒い噂が広まっています。

今回、竹中半兵衛のかんたんな経歴黒田官兵衛との関係や、家紋に関する疑問について、紹介していきますよ。

 

竹中半兵衛、プロフィール

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竹中半兵衛(たけなかはんべえ)
出生地:美濃国大野郡(現・岐阜県揖斐郡大野町)
生誕:1544年9月11日
※1544年9月27日という説もある。
死没:1579年7月9日
享年:36歳(肺の病気により死亡)
時代:室町時代(戦国時代)‐安土桃山時代

 

何した人?どんな人?

竹中半兵衛は、戦国時代を代表する「天才軍師」です。

「今孔明(いまこうめい)」という異名を持っていて、これは中国の天才軍師で有名な「諸葛亮孔明(しょかつりょうこうめい)」からとられたもの。

ここでは、竹中半兵衛のかんたんな経歴を紹介していきます。

 

かんたんな経歴

中半兵衛は、美濃(現在の岐阜県)、竹中重元(たけなかしげちか)と杉山久左衛門の娘のあいだに生まれました。

半兵衛の父・竹中重元は岩手四郡のほか、福田・長松・栗原一帯を治め、菩提山城(ぼだいざんじょう)を築いた人物です。

 

1562年、父・重元が死ぬと、竹中家を19歳の半兵衛が継ぎました。

菩提山城主となって、美濃国の主である斎藤義龍(さいとう よしたつ)に仕えました。

彼が亡くなるとその後を継いだ斎藤龍興(さいとう たつおき)に仕えることとなります。

しかし、義龍時代のころから通年を通して、織田信長による美濃国を奪ううごきが激しさを増していました。

半兵衛は、何度も織田軍を退けたと言います。

 

ちろん、主君が、義龍から龍興に変わっても、大活躍しました。

織田軍を退けさせた「十面埋伏の計(じゅうめんまいふくのけい)」は有名です。

これは、兵を忍ばせておいて、一旦通りすぎた織田軍を、全方位から叩くというものです。

 

しかし、まだ10代であった主君・龍興は、政治にまったく関わろうとしませんでした。

酒と女におぼれる日々を過ごし、さらに祖父や父の代から仕えている有力家臣の美濃三人衆や優れた知略で織田軍勢を敗退させた半兵衛を大切にしなかったのです。

これに、いいかげん激怒した半兵衛たちは、クーデターを計ります。

兵士17名を率いて、龍興の居城・稲葉山城(いなばやまじょう)を奇襲したのです。

そして稲葉山城を占拠したのです。

 

のクーデターを耳にした織田信長は、竹中半兵衛に美濃国の半分を与えることを条件に、稲葉山城を明け渡すよう求めました。

しかし、これを断り、龍興へ稲葉山城をかえして、浅井長政のもとへ身を寄せ、3000貫を与えられ、ひっそりと暮らしたと言います。

 

それでもどうしても竹中半兵衛を欲しがった信長。

龍興が住む稲葉山城を攻め落し、美濃を平定させると、つかいを竹中半兵衛のもとへ向かわせたのです。

しかし、彼は病を口実に断ります。

代わりに弟の久作を信長へと仕わせたのです。

それでも、ほんとうに半兵衛が欲しかった信長。

その後ふたたび、木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)を、半兵衛のもとへ向かわせます。

木下藤吉郎の、全力の説得により、半兵衛は木下のもとで軍師として仕えることを決めました。

このお話には少し誤りがあり、実際には織田信長直属の家臣となったともいわれています。

信長から、守光の太刀・国光の短刀・甲冑・黄金50枚などを与えられ、歓迎されたとのこと。

その後、数々の大活躍をみせていた半兵衛は、患っていた肺の病が悪化し病死しました。

 




黒田官兵衛とはどんな関係?

中半兵衛と黒田官兵衛との関係について。

半兵衛と官兵衛は、共に豊臣秀吉を支え続けた「天才軍師」として有名です。

 

秀吉に仕えた時期ですが、

半兵衛は、1570年~79年(病死)

官兵衛は、1575年~

ということですので、2人がいっしょに過ごしたのは、4年間だけだったのです。

 

でもなぜか、この2人の関係は犬猿の仲だったんだっけ?として広く知れわたっています。

ですが、実際はそれほど仲が悪いというわけではなかったようです。

というか、むしろ仲良しなのです。

 

んなエピソードがあります。

半兵衛と官兵衛が、毛利軍へ進軍したとき、荒木村重(あらきむらしげ)が反逆をおこしました。

それを官兵衛が説得へと向かったのです。

しかし官兵衛は、荒木村重に捕えられてしまい、幽閉されてしまいました。

 

これを信長は、「黒田官兵衛が荒木村重のもとから戻ってこないのは裏切ったからだ」と言い、人質である黒田長政(官兵衛の長男)を殺すように命じます。

ですが、官兵衛を信頼していた半兵衛は、信長には人質を殺したかのように見せかけ、自身のもとでかくまうことにしたのです。

信長をあざむいた行為で、罰が下ると思っていた半兵衛でしたが、のちに捕らわれていた官兵衛が解放されると、信長は「半兵衛のおかげで過ちを犯さずに済んだ」とたいへん喜んだそうです。

 

しかし、このときすでに半兵衛は病死しており、官兵衛が半兵衛に対し感謝の言葉を述べることは出来なかったのです。

仲が悪いと思っていた半兵衛と官兵衛ですが、実際はとても固い絆で結ばれていたことが分かりますね。

 




半兵衛と官兵衛の家紋が似ているのは、何か関係があるの?

兵衛と官兵衛の家紋が似ているのは、何か関係があるのでしょうか。

当時、家紋は何種類かもつのが普通ですが、そのうちのひとつ、餅紋(もちもん)を半兵衛と官兵衛は使っています。

 

こちら。

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というか、この餅紋ってなに?ただの丸?ッて感じですよね。

 

最初は餅紋といえば、これだったのが、

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戦で目立たない!ということで、こうなったり、

kokumoti01(白餅)

 

こうなったりしました。

080921a(黒餅)

 

家紋でただの丸ってどうなの?と思いがちですが、実はこの餅紋、とても深い意味が込められているのです。

 

餅はとても縁起が良いものとされています。

朝廷(天皇)の式典でも使うし、保存性の良さから軍陣の食糧としても重宝されました。

また、「もち」は「持」「保」とも通じます。とてもおめでたいものとされ、黒地に描く「黒餅(こくもち)」は「石持(ごくもち)」に通ずるので、石高を保有するとして、ゲン担ぎにもなり喜ばれました。

そのため、多くの武士たちは、この餅紋をマネしたのです。

 

兵衛がこの餅紋を使うようになったのは、ある戦のときに、胸元に入れていた鏡餅によって命が救われたことが由来でした。

それから、半兵衛は白餅を家紋につかうようになったと言われています。

 

黒田官兵衛の餅文は、竹中半兵衛からいただいたものだと考えられています。

家紋については詳しくわかっていないですが、半兵衛と官兵衛の絆を感じられる唯一のものですので、どんな仮説よりもロマンがあって素敵です。

まあとにかく、この餅紋は、とても縁起の良い家紋なのです。

 

まとめ

竹中半兵衛を5分で!黒田官兵衛とは家紋でも関係は?でした。

竹中半兵衛について、かんたんに語るポイントは、

・戦国時代、最高の「天才軍師」だった

・木下藤吉郎秀吉の三顧の礼によって織田軍へと士官した

・官兵衛とは犬猿の中ではなく、固い絆で結ばれていた

 

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