庄内藩こそ、幕末最強だと思う

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幕末最強伝説~庄内藩の戊辰戦争~

読者のみなさんは、幕末の日本で最強の藩はどこだと思いますか。

勇猛果敢な薩摩藩、不屈の闘志の長州藩、近代化が進んだ佐賀藩とお考えの方もいらっしゃるでしょう。また、敗れたとはいえ、ガトリング機関砲を備えた長岡藩を上げる人もいると思います。

でも、私は違います。私が幕末最強の藩として考えるのは、出羽国の雄藩・庄内藩です。

ここでは、私が推す庄内藩幕末最強伝説をご紹介して参ります。

 

庄内藩とは

庄内藩と聞いてピンと来る人は、かなりの歴史通です。ですが、ピンとこない人のために簡単に紹介しましょう。

庄内藩は、お殿様は酒井氏です。この酒井氏は、徳川家康四天王の1人とされた酒井忠次を始祖にします。いわば、徳川諸藩の中でも名門中の名門という家柄です。そのため、徳川幕府からの信頼も厚かったのです。

徳川四天王でも武功抜群の酒井忠次

この幕末期には、庄内藩は江戸市中取締役を幕府から仰せつかり、江戸の治安を守る重要な役割を担いました。この時、庄内藩は江戸庶民から人気で、江戸での責任者だった家老松平権十郎などは錦絵が描かれるほど庶民から慕われていました。

 

戊辰戦争の火付け役

徳川慶喜大政奉還し、朝廷が王政復古を宣言した1867(慶応3)年、江戸の治安は極度に悪化していきました。理由は薩摩藩でした。相楽総三ら率いる無頼の浪士たちたちが江戸各地で暴行や略奪を繰り広げていたのです。そして、彼らは騒動を起こしたあと、三田の薩摩藩邸に戻っていきました。浪士を操っているのは薩摩だということは明白でした。

しかし、徳川慶喜は、決して手を出してはならばいと庄内藩に厳命していたのです。慶喜は、薩摩が徳川家を挑発して、戦に持ち込もうとしていると見破っていたのです。でも、そうした判断は江戸から離れて大坂にいた冷静な慶喜だからできることです。目の前で狼藉に直面する庄内藩士たちは、我慢できませんでした。

慶応3年12月25日、ついに庄内藩士たちはキレました。庄内藩をはじめ江戸の治安を受け持つ4藩の武士たちが、三田の薩摩藩邸を砲撃し、焼き討ちを決行しました。

これが戊辰戦争の引き金になったのです。

戊辰戦争の口実を与えることになった薩摩藩邸の焼き討ち

 

東北戊辰戦争の名分は、会津藩と庄内藩の追討

鳥羽伏見で始まった戊辰戦争は、江戸無血開城で徳川慶喜が降伏したことで、「徳川を討つ」という名分を新政府軍は失いました。しかし、新政府軍はその討伐の手を東北に伸ばします。その大義名分になったのが、朝廷に歯向かった会津藩と庄内藩を討つというものでした。

会津藩は、長州藩と対立し、長州藩追い落としに一役買った藩でした。そのため、長州藩は会津藩への恨みを忘れなかったのです。一方で、庄内藩も薩摩藩邸焼き討ちの因縁から朝敵とされ、新政府軍から名指して敵とされたのです。

東北諸藩は、この会津藩と庄内藩を守るべく同盟を組み、新政府軍との対決姿勢を鮮明にしました。(以後、東北諸藩を同盟軍と記します)

 

切り崩される同盟軍 その時、庄内藩は

しかし、同盟軍の結束も一枚岩ではありませんでした。会津藩を中心とする同盟軍と新政府軍の戦いが、白河小峰城(現在の福島県白河市)で始まろうとする時、秋田藩が新政府側に寝返り、領内に新政府軍を引き入れたのです。

同盟軍は挟み撃ちになることを嫌い、庄内藩は秋田藩討伐に向かうことに決しました。

そして、庄内藩最強伝説の幕が開いたのです。

 

庄内藩軍 連戦連勝

庄内藩はまず天童に進出していた新政府軍を追い払い、その後北上。新庄、本庄、亀田と新政府側についた諸藩を下し、秋田藩領まで進出。堅守を誇る横手城を難なく陥落させるなど、秋田戦線で無敗を誇りました。

この庄内藩の進撃の前に、秋田藩主は死を覚悟したほどだったと言われています。

庄内藩士たちがかかげ、新政府軍を恐れさせた北斗七星旗

この庄内藩の強さは、末端の兵まで近代銃器を操るほどに連度の高い軍制を誇ったことです。7連発のスペンサー銃など新政府軍でも数少ない近代銃器を庄内藩は装備していました。

また、この時、庄内藩では領内を守る任務に多くに領民が参加しました。おかげで、連度の高い藩兵を外征に出すことができたのです。

庄内藩は武士と民衆の結びつきが、他藩に比べてずば抜けて強かったのです。

スペンサー銃 いわゆるライフル銃で最新鋭の銃器でした

 

庄内藩の強さの秘密は、豪商にあり

この庄内藩の強さの源泉は、酒田港で北前船での交易で財を成し、当時日本一の言われた豪商・本間家にありました。庄内藩では本間家の当主を代々士分に取り立てて、幕末を迎える前から藩政改革を行っていました。

そして、この余裕のある財政とさらには本間家からの献金で、庄内藩は軍の近代化を進め、日本でも最高クラスの近代化を成し遂げた藩になっていたのです。

新政府軍も庄内藩の強さを認め、その勢いを食い止めるために切り札で天皇の護衛兵であった佐賀藩支藩武雄藩兵を急遽秋田に派遣しました。しかし、それでも、庄内藩の進撃を食い止めるのがやっとで、秋田戦線は膠着状態に陥りました。

この時の戦いの激しさを物語る「華は会津で難儀は越後、もののあわれは秋田口」という俗謡が流行ったと言われています。

 

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庄内藩、連戦連勝のまま敗戦

こうして無類の強さを誇る庄内藩でしたが、それ以外の同盟軍諸藩が次々と新政府軍に前に屈していきました。そして、1968(明治元)年9月22日、会津藩が降伏。孤立した庄内藩も、9月26日に降伏しました。しかし、庄内藩はこの降伏まで領内に一兵の新政府軍も入れなかったのです。

そして庄内藩は、日本史上でも、いえ世界の歴史でも他に類を見ない連戦連勝のまま敗戦を迎えたのです。

庄内藩の二番大隊を率いた酒井玄蕃 彼が率いる庄内藩兵は無敵でした

いかがでしょうか。

最終的には降伏したため、庄内藩は最強ではないという意見もあると思います。

しかし、一藩上げて近代化に成功しただけでなく、武士と民衆が強く結びつき、互いにお殿様を守るために懸命に戦う姿を見せた藩を私は他に知りません。さらに酒井家を救うために本開家は新政府に対して、賠償金をすべて肩代わりして納めました。

また、一時他に転封された酒井家の庄内復帰を民衆たちが明治政府に働きかけて、実現させるなど藩と民衆の結びつきの強さを示す逸話に事欠かないのです。

軍備だけでなく、制度、さらには藩内の人々の意識も含めて、ここまで高い藩はなかったのではないかと思います。庄内藩幕末最強伝説、みなさまのお考えはいかがでしょうか。

(筆者・黒武者 因幡)

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