推古天皇(すいこてんのう)といえば、聖徳太子を摂政にした(政治を任せた)女性の天皇ですね。
とても美人で賢かったとされていますが、何をしてどんな人物だったのでしょうか。
今回、推古天皇と聖徳太子との関係、即位の理由について紹介していきますよ。
推古天皇、プロフィール
推古天皇(すいこてんのう)
生誕:554年
死没:628年4月15日(諸説あり)
享年:75歳(病死)
時代:飛鳥時代33代天皇
推古天皇って何した人?どんな人?
推古天皇は、聖徳太子を信頼して、仏教中心の国づくりを進めた女性の天皇ですね。
聖徳太子を語るには推古天皇が、推古天皇を語るには聖徳太子は絶対必要です。
ここでは、推古天皇の経歴を紹介していきます。
推古天皇の経歴
推古天皇は、30代天皇・敏達天皇(びだつ天皇)の妻です。
592年に、32代天皇・崇峻天皇(すしゅん天皇)が蘇我馬子に殺されたため、女性として初めて天皇になりました。
彼女はとても綺麗な女性でした。「顔かたち煌々しく」と史書にあります。
当時は、豪族が力をつけ、政治に口出しするようになっていました。
推古天皇は、「天皇中心の政治を取りもどしたい」と考えていました。
そこで、才能があって信頼できる、甥(おい)の聖徳太子を「摂政」にして、政治を任せることにしたのです。
「摂政」とは、天皇が幼かったり、病弱だったり、また女性の天皇だったときに天皇の政治をたすける役職ですね。
つまり、あの聖徳太子が活躍した時というのが、まさに推古天皇の時代なのです。
で、仏教の教えを役人や国民が学ぶことで、平和な国にできると考えた推古天皇は、仏教を保護する命令を出します。
こうして、四天王寺(大阪府)、飛鳥寺(奈良県)、法隆寺(奈良県)など、現在も残る大きな寺院が次々と建てられたのです。
聖徳太子が自由に政治をできたのは、推古天皇が聖徳太子を心から信頼し、支え続けたからだったのでした。
推古天皇が行った政治は、「仏教の保護」、「遣隋使(けんずいし)」、「冠位十二階(かんいじゅうにかい)」などです。
これらは、摂政であった聖徳太子が行った事とされていますが、推古天皇の治世でなければ、実現は難しかったと言われています。
こちらの「聖徳太子についてカンタンにわかり易く紹介している記事」で、上の「遣隋使」や「冠位十二階」などもわかり易く紹介しています。
推古天皇は、ホンモノの政治家だったのです。
聖徳太子を途中で失いますが、推古天皇は75歳でなくなります。
聖徳太子との関係は?
推古天皇と聖徳太子との関係について。
これは、伯母(おば)と甥(おい)です。
関係図はこんな感じですね。
頭がこんがらがりそうですね。(・∀・)
当時は血族婚は普通でした。つながりが非常に強かったのですね。
即位の理由は?
なぜ推古天皇が即位したのか、その理由について。
即位とは、つまり天皇になることですね。なせこの時天皇になったのが推古天皇だったのか、ということ。
これには少々ややこしい事情が絡みます。
推古天皇は日本で初めての女性天皇です。
王位につける皇子がいない場合は、女性が立つのはよくあることです。
この時期は、天皇が次々に崩御(死亡)したのです。
敏達天皇(びだつ天皇)の次の用明天皇(ようめい天皇)は、在位2年で病で崩御。
その次の崇峻天皇(すしゅん天皇)は、蘇我馬子に暗殺されます。
その前にも、穴穂部皇子(あなほべのみこ)と、宅部皇子(やかべのみこ)という天皇候補が、政争で亡くなっています。
推古天皇自身も竹田皇子(たけだのみこ)という息子がいて、「将来は天皇に…」と思っていたのですが、かなわず早くに亡くなります。
推古天皇は蘇我馬子が推薦して即位させたのです。
この時、どの天皇候補よりも、推古天皇が人望があったのです。
つまり、推古天皇が即位した理由は、その時、天皇が次々と変わっていく中で、一番必要とされていたから、そして彼女しかいなかったからなのです。
まとめ
推古天皇と聖徳太子との関係について、即位の理由について紹介しました。
美人でなおかつ頭もよい、機転が利いて聖徳太子と蘇我馬子を同時にいさめることが出来た女性、それが推古天皇です。
聖徳太子の活躍っぷりも、推古天皇が聖徳太子を心から信頼し、政治を任せられたからなのですね。
ということで、推古天皇をカンタンに語るポイントは、
・推古天皇は、仏教を保護し、広めた
・推古天皇のおかげで聖徳太子も活躍できた
・とても美人で、とても賢かった
・即位の理由は、その時に彼女しかできる人がいなかったから、能力も申し分ない
最後まで読んでいただきありがとうございます^^