蘇我入鹿(そがのいるか)といえば、大悪人のように語られたり、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)のライバルだとも言われたりします。
今回、蘇我入鹿が中大兄皇子に暗殺された理由や、蘇我入鹿と聖徳太子は同一人物だった説についてなど、紹介していきますよ。
蘇我入鹿、プロフィール

蘇我入鹿(そがのいるか)
出身地:大和(現在の奈良県)
生誕:不明(600年ごろと推定)
死没:645年
時代:飛鳥時代
蘇我入鹿って何した人?どんな人?
蘇我入鹿(そがのいるか)は、強引に権力をにぎりますが、最後は反発をうけて自滅します。
思いどおりになる天皇を位につけて、自分が天皇であるかのように振舞っていました。
蘇我入鹿の経歴をカンタンに紹介していきます。
蘇我入鹿、経歴
まず、蘇我入鹿(そがのいるか)を語るには、入鹿の父、祖父のこともチラッと紹介したほうが良さそうです。
祖父・蘇我馬子(そがのうまこ)は、有名ですね。
馬子は、聖徳太子と手を組み、当時「仏教反対!」と言っていた勢力をたおした人ですね。
仏教を広めたい聖徳太子と馬子は気が合い、馬子は朝廷(天皇たち)のために力をつくします。
朝廷内での権力もそうとう強くて、「大臣(おおおみ)」という、天皇の補佐の最高の位でした。
父・蘇我蝦夷(そがのえみし)は、蘇我馬子の「大臣(おおおみ)」を継ぎ、朝廷内で蘇我氏の地位を固めました。
推古天皇の次の天皇を決めるとき、山背大兄王(聖徳太子の子)派と、田村皇子派に分かれました。
このとき蝦夷は、自分の思いどおりになる田村皇子を応援し、天皇にしました。
そして、政治の実権は自らがにぎり、蘇我氏が天皇家と同じであるかのようにふるまったのです。
さて、そして蘇我入鹿です。
入鹿も、父・蝦夷から「大臣(おおおみ)」を引き継ぎます。
もちろん入鹿も、自らが天皇のようにふるまい、政治をおもいのままに動かしていたのです。
入鹿は、自分の思い通りになる古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ)を、天皇にしようとしたため、もうひとりの天皇候補であった山背大兄王(聖徳太子の子)が邪魔でした。
そのため入鹿は、自分のやり方が気に入らないらしい聖徳太子の一族を、皆殺しにしてほろぼします。
こうした蘇我氏の強引なやり方は、人びとの反発を招き、いつまでも許されることはありませんでした。
645年、皇居での儀式の最中に、入鹿は中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と中臣鎌足(なかとみのかまたり)らに殺されました。
暗殺といわれることもありますが、暗殺にしては堂々した殺害でした。
この入鹿殺害の知らせを聞いた父・蝦夷は、抵抗をあきらめ、自宅に火を放って、自ら命を絶ったのです。
中大兄皇子と中臣鎌足らによって、蘇我氏はほろんだのです。
中大兄皇子と中臣鎌足について、こちらの記事でカンタンにわかり易く紹介しています。
>>>中大兄皇子(天智天皇)を5分で!中臣鎌足との関係、大化の改新って?
>>>中臣鎌足を5分で!ミイラの場所や渡来人って?子孫は現代まで続いている?
中大兄皇子に暗殺された?理由は?
蘇我入鹿の暗殺された理由について。
暗殺というには、あまりにも堂々としています。
実はこれ、大臣・蘇我入鹿の殺害は、宮廷全体で暗黙の了解だったのだそうです。
こちらの画像は有名ですね。入鹿殺害のときの画です。

首が飛んでいるのが、蘇我入鹿ですね。
奥にいる女性は皇極天皇(こうぎょく天皇)です。
殺害された理由ですが、もう経歴をみればわかりますね。
好き勝手やりすぎたのです。
自分が天皇のようにふるまったり、聖徳太子の一族を皆殺しにしたり。嫌われて当然だったというわけです。
この、最高の役職だった蘇我入鹿を殺害し、蘇我氏をほろぼしたことを、「乙巳の変(いっしのへん)」と言います。
「乙巳の変」は、「大化の改新」の始まりです。
ある意味、革命だったのです。
こちらの記事で、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)の「大化の改新」について、蘇我入鹿について、カンタンにわかり易く紹介しています。
>>>蘇我入鹿を5分で!ガチで聖徳太子と同一人物?中大兄皇子に暗殺された理由?
聖徳太子と同一人物説がある?
蘇我入鹿と聖徳太子が同一人物説。
珍説ですね。(・∀・)
これは、信ぴょう性はほとんどないので、信じないほうがよさそうです。
一応、同一人物だといわれる理由もちょっとさわってみましょう。
蘇我入鹿を祀った(まつった)ところが聖徳太子のお墓と言われていたり、史書で入鹿が皇子と呼ばれていたことが理由です。
入鹿の出生は本当に謎なのです。聖徳太子も、謎しかない人物です。
当時は戸籍謄本もろくにない時代です。
謎すぎるがゆえ、おもしろおかしく同一人物説を作ってみたといったところでしょう。
しかし、まず年代がおかしいです。
蘇我入鹿がグイグイくるのは、聖徳太子が亡くなったあとですね。
また、もし聖徳太子が入鹿なら、山背大兄皇子(やましろのおおえのおう)や一族を殺す理由が見当たりません。
山背大兄皇子は自分の子供で、自分の一族をほろぼしたことになりますから。
さらに、彼はすでに聖徳太子。超権力者。超凄いのです。
わざわざ名前を聖徳太子から蘇我入鹿に変えてまで、あんなに暴走してまで、新しく権力がほしいとか思わないでしょう。
聖徳太子については、こちらの記事でカンタンにわかり易く紹介しています。
まとめ
蘇我入鹿について、聖徳太子と同一人物説や、中大兄皇子に暗殺された理由について紹介しました。
蝦夷パパ、馬子じいじ。息子らの育て方を間違えてちゃってました。
蘇我入鹿の死を皮切りに、政治改革は進んでいきます。
どの本の挿絵もいかにも悪そうな顔で書いてありますが、敗者の習いですね。
ということで、蘇我入鹿をカンタンに語るポイントは、
・祖父に蘇我馬子(うまこ)、父に蘇我蝦夷(えみし)
・当時、かなりの権力者で自分が天皇かのようにふるまっていた
・好き勝手やりすぎて、中大兄皇子らに殺害された
・聖徳太子と同一人物説は、デマカセ
最後まで読んでいただきありがとうございます^^
凄くわかりやすい
蘇我氏の一族は生まれ年か死亡年か生まれ年と死亡年がわからない人が多いです有名な蘇我氏3代蘇我馬子、蘇我蝦夷、蘇我入鹿は生まれ年がわかんな蘇我馬子の父の蘇我稲目は生まれ年と死亡年はわかんない、蘇我赤兄は生まれ出しは623?ぐらいで死亡年はわかんない
うるさいよ
あなたがうるさい
二回童埼玉県さんのほうがうるさい(9歳歴史に神の同一人物です)
だ ま れ
二階堂埼玉県さんそれって感想ですよね
コメントに音はありませんよ―――――――――
うるせーんだよ〇〇じゃねねーのあなた、あなたみたいな人にかまう時間勿体ねーんだよ←(うるせーんだよいったこいつは俺の分身ですジョーンズ的なww)おめーがうるせーよ
うるさいって二階堂埼玉県さんじゃないようるせーんだよって言ったやつ
蘇我入鹿が暗殺された理由は外国と仲を深めようとしたからです
蘇我善徳が聖徳太子です。
詳しくは、蘇る聖徳太子の真実と言う本にかなり詳しく書かれていますので読んでみたらわかります。日本書紀を詳しく解説しており、飛鳥時代の天皇は架空人物であることなどをかなり詳しく解説されてます。
因みに舒明天皇(架空人物)が大臣にした蘇我蝦夷も架空人物です。
蘇我善徳は蘇我入鹿で馬子が父。
一般に誤解されている厩戸皇子は架空人物です。
日本書紀の編纂の中心にいたのが藤原不比等で
中臣鎌足の息子です
不比等は親父を顕彰する為に必要以上に蘇我氏を
悪役にしています
最近の研究では蘇我氏は当時の大和朝廷の改革者
だったとしてきています
聖徳太子は日本書紀の記述の中では実に様々な
名前で描かれています
この辺りからして実に怪しい
そしてシルクロードを介して伝わった中東世界の
話題にも似た様な伝承で異様な持ち上げ方をされて
いる
京都の広隆寺では歴代天皇が即位式で着用した
着物を聖徳太子像に差し上げて着せ替えをする
習わしがあります
これは聖徳太子怨霊説にも繋がっています
聖人が怨霊という不思議な関係に闇が隠されて
いるのです
自分は「聖徳太子=蘇我入鹿」を珍説だとは思いません
ちょうど今、歴史の授業で大化の改新のやってて、役に立った。
ありがとう
先生になって欲しい!
聖徳太子は蘇我氏三代のことですよ。入鹿だけではありません。馬子、蝦夷、三人が聖徳太子なんです。そもそも、聖徳太子が馬小屋で埋まれて厩戸王、って言われてるでしょ?馬子に通じてるでしょ?聖徳太子がやったお仕事は、一人でやるには無理があります。だから、蘇我氏三代がなし得た仕事を架空の人物である聖徳太子がやったことにしたんです。本当は、中大兄達も奴らがやった功績なんか歴史から抹殺したかった筈ですが、そうするには無理があるくらいの仕事を蘇我氏がやってくれたんです。だから、残さざるを得なかった。そして、馬子、蝦夷、入鹿って名前もウソだからね?中大兄と鎌足が日本書紀とか書くにあたり勝手に名前変えちゃったのよ。こいつら酷いね。大悪人だね。だから、私、藤原氏嫌い(笑)全国の藤原系の人、滅んでしまえ!!と思う程。そんな自分ももしかしから藤原氏かも知れないけど…
遡って付された称号や職務に苗字や名前を信じる辺りから、術中に嵌まって居ります。
大臣→大人 (合議政治の実質の王)
天皇→大君 (合議政治の傀儡の王)
蘇我・・・曽我・・・鞍作・・・葛城→蔓木
蘇我は、曽我兄弟の仇討ちから 鞍作は国造から
葛城(ガッショウ)は、中央アジアの国から
蔓木 垂見①―摩理勢②―毛人③―宗形鳥萬呂―綿萬呂―滋光―難波 千世
①尾治国造 (蘇我 稲目)
②尾治国造 (蘇我 馬子)
③大倭国造 (蘇我 入鹿)
渡来人、、古代大昔から人々は海を行き来して住み国を作りまたその国も栄枯盛衰くっついたり離れたり、、渡来人と日本人の定義は正しいのか、2つを分離するという概念は正しい捉え方なのか。
日本の古代の歴史を考えるとき、当時の国境が緩やかな時代なので、日本に限られた情報に偏よるより、中、韓はもちろんその他の国に残される古文などの情報も網羅して、現代の国家の枠組みの区分を前提に見るのではなく、人々、人類、社会の視点から考察する方法をとる必要がある。
まだはっきりと言えるに到達してないことを間違いない推測であると言うのは間違いだと思う。日本で習う日本の歴史は、日本の国家主義に関わる体制を支えることを目的にしている、または、していたところに出発点がある。国を作るには暴力的な平定と同時に物語り作りがされる、物語りとは日本の場合は古事記に始まり日本書紀など。日本を国家として成り立たせるために何をしてきたのかと言う視点で見ると面白い。
蘇我氏は仏教支持、鎌足は神道支持、で勝ったのは鎌足つまり神道が勝った、と40年前に学校で習った。その後、鎌足や中大兄皇子の墓から仏像が見つかるなどして現在は仏教対神道の宗教の戦いではなく政治的権力の戦いだと言われるように変わった。
天皇によっては仏教の信者になっており、過去御所にも仏法の仏壇があったと言われている。まあそうだろう。
日本の国家主義を作り上げるには日本独自の元々の無始からの宗教となるものが必要と考えるのは容易であり、同時に、その宗教に基づいて国民は初めからひとつの民族であったとする、これが国づくりの戦略であり多くの国がやってきた方法である。
日本は多民族であるのは今では正しい理解となっている。古代からの人々の海を渡る移動を考えると、単民族であるはずがないのは自明と言っていいほど当たり前である。しかし数十年前まで単民族であることが信じられていた、ここで大事なのは、誰たちが何の目的でどのようにして単民族との誤った考えを広めたのか、近代のこのことを考えるだけでも、古代日本で何が何でも起こったのかを、古文書の情報から逆算することでより真実に近づいて見えてくると思う。
脳障害極右は日本書紀の記載が古事記と全く違うことも知らないんだろ
どちらかが真ならどちらかは捏造となる
もちろん両方捏造の可能性もあるが
なによりクーデターを犯した上に白村江の戦いで大爆死した側が作った文書だからね
蘇我入鹿と聖徳太子が同一人物だった、というところが気になりますね。戦前に、津田左右吉博士が、「日本書紀」は創作に近いと自著の
中で語られていましたが、難しい問題です。しかし、遣隋使であった僧侶の旻が最も優秀な生徒として蘇我の太郎(入鹿)と言っていますから、聖徳太子が実は蘇我の太郎すなわち蘇我入鹿だったという可能性も考えられます。第一入鹿などという名前を誰が付けるのですか。それは、暗殺して政権を奪った帝王ではないですか?全く考えられないとは言えないでしょう。日本書紀がほとんどちゃらんぽらんに書かれているからです。
入鹿について日本書紀の編者の術中にはまっていると思います。
聖徳太子は秦河勝・・・・つまり秦氏は聖徳太子。
蘇我入鹿は蝦夷でアイヌ人。 秦氏も藤原(中臣鎌足)も北イスラエル渡来人。
事実を書くと 蘇我入鹿は横暴な人物じゃないですよ。中臣鎌足は百済・唐人出身。蘇我入鹿は天皇家。蘇我入鹿を暗殺し、中臣鎌足と秦氏はグルになり天皇の権威と地位を奪った。
まあ、フェノロサと梅原の言ってる事が全部事実で今ある
救世観音像とかも実は何から何まですり替えられた物で。
騎馬民族征服も聖徳太子怨霊も全部が全部史実と仮定しても
今の左翼の様な売国奴の体制攻撃や変なトンデモ本を売る為
に利用されている現状を知ったならば聖徳太子でも怒り狂う
と思うけど。
幾ばくかの事実含んでいたとしても全てを渡来人の功績みた
いに語る今の左翼にはその事実へは辿り着けないだろうね。
全て渡来人が建国した国ならばオーストラリアのアボリジニ
みたく独立すら保ってねぇし。
それならば今でも百済国とか辰韓国とか自称した筈。
まあ、日本人は昔から誇張やファンタジーに魔改造が大好き
だった訳でこういう珍説が生まれるのも致し方無いかと。
後、数百年後には南総里見八犬伝が史実であるという説が生
まれて真面目に議論されてるかもね。
珍説と言われるものは、
裏付けとなる考証に、多大な時間を割いた人間がいる。
なぜなら、
それを自身が珍説だと理解してるからだよ。
つまり、表層の情報を追って、
妄想だと片付けるのは、
まあ、勝手だが、
ちゃんと調べてから記事にした方が、
面白い題材だと思うけどね。