江戸時代

佐々木小次郎ってどんな人物?謎に包まれた伝説に剣豪を検証!

〜伝説の剣豪・佐々木小次郎の正体は?謎に包まれた実像を検証!〜

宮本武蔵佐々木小次郎

恐らく、この二人の名を知らないという方はそれほど多くないでしょう。

江戸時代初期の伝説的な剣豪として名を馳せた二人は巌流島で果たし合い、宮本武蔵の勝利で戦いの幕は閉じたと伝わっています。

 

上記の伝説から、一般的には「グッドルーザー」として名を残している小次郎ですが、その生涯についてはとにかく謎が多いことでも知られています。

さらに、生涯に謎が多いどころか、小次郎の実在に関しても確たる証拠は残されていないのです。

そこで、この記事では小次郎の生涯を検証するとともに「実在の人物か否か」という点に関しても考えていきたいと思います。

画像・佐々木小次郎の像

出身地や家系も諸説あり定かではない

まず、小次郎の出自に関してはハッキリしたことが分かっておらず、様々な説が乱立する状態となっています。

豊前国(現在の福岡県)の豪族佐々木氏の生まれであるため佐々木姓を名乗っているという説。

越前国(現在の福井県)に生まれて一乗谷のほど近くで「燕返し」の修行を行なったという説。

周防国(現在の山口県)岩国に生まれたという説などが存在します。

 

残念ながらこれらの説を決定づける証拠が見つかっていないので出自を確定させることはできませんが、どの説にも共通しているのは「剣豪として諸国を歴遊した」という点です。

幼少より剣を好んだという小次郎は、中条流という流派の富田勢源という人物、もしくは勢源の弟子鐘捲自斎(かねまきじさい)に剣を習ったとされ、そこで得た剣術をベースに諸国を回る中で秘剣・燕返しを会得したというのが通説になっています。

ただ、宮本武蔵と出会うまでの生涯はほとんどが謎に包まれているため、小次郎の実在が疑われるのも納得といったところです。




毛利家や細川家に仕えて剣術を指南した?

秘剣を大成させた小次郎は、「三本の矢」でよく知られる毛利家に仕えていたと伝わっています。

しかし、戦国が終わるころには何らかの事情で毛利家を離れ、再び諸国歴遊の旅に出たということです。

 

その後、小倉藩の細川忠興に見出されたことで剣術指南役として過ごすことになります。

しかし、毛利家や細川家に伝わる信ぴょう性の高い史料上には小次郎の名が登場せず、ここでも小次郎の実在を証明することはできません。

史実かどうかはともかく小次郎が小倉藩で剣術指南をしていると、当時60代の彼に挑戦を申し出る若者が現れます。

若者の名は宮本武蔵であり、生涯において無敗を誇る若き剣豪として知られていました。




巌流島で宮本武蔵に敗れ、命を落とす

巌流島の戦いが勃発したのは慶長17年(1612年)とされ、言い伝えによれば実に30歳近く歳の離れた剣豪二人が果たしあったということになります。

なお、巌流島の様子を伝える石碑に記載されている内容から「宮本武蔵が遅刻して小次郎の精神を乱した」というのは後世の後付けと考えられています。

小次郎は長尺の剣を使いこなす個性派として知られており、その丈は実に3尺(90㎝前後)と伝わっています。

一方、宮本武蔵は木刀を使用したと記録されており、剣術家としてもタイプの異なる二人が相対したことになります。

 

戦いそのものは、宮本武蔵による「雷光すらも遅く見えるような」一撃によって早々に決着がついたとされており、小次郎は即死したというのが言い伝えです。

こうして小次郎を打倒した宮本武蔵は剣豪として名を轟かせ、剣術の指南や剣術書の執筆で活躍していきました。

また、剣術だけでなく芸術面でも才覚を発揮し、いくつかの水彩画が現代まで伝わっています。




結局、佐々木小次郎の名前はどうして広まったのか

ここまでの生涯を整理していくと小次郎の生涯はほとんど全てが謎に包まれており、現代に残されている史料からは実在を証明することさえできません。

しかし、そういった現状にもかかわらず小次郎の名は日本人に深く浸透しており、宮本武蔵ほどではないにせよ一定の人気を得ています。

 

この理由としては、まず第一に「宮本武蔵とその弟子による宣伝」が大きく影響していると考えられます。

宮本武蔵に関しては実在が確認できるので、彼が自身の功績を世に広めるために「佐々木小次郎」という架空の剣豪を作り出したという見方もできます。

実際、宮本武蔵やその弟子たちは巌流島の出来事を様々な書物や石碑に書き残しており、剣豪宮本武蔵にとって一種の「セルフプロデュース」であった可能性は決して低くありません。

この仮説が真実かどうかは分かりませんが、宮本武蔵の名とともに広まっていった小次郎という存在は、しだいに創作物の中で存在感を発揮していきます。

 

ちなみに、現代で小次郎が著名になる大きなキッカケとして考えられているのが、大人気歴史小説家の吉川英治が昭和初期に執筆した『宮本武蔵』という小説です。

この小説は戦前・戦後を通じて人気を博し、我々がよく知る宮本武蔵や佐々木小次郎のイメージを確立させたと考えられています。

【出典】
大倉隆二『宮本武蔵』吉川弘文館、2015年。
久保三千雄『宮本武蔵とは何者だったのか』新潮社、1998年。

(筆者・とーじん)

 

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とーじん
上智大学文学部史学科に在席。歴史学を専攻しており、専門は日本近現代史。将来的には職業ライターとして活動をしていく予定。 現在エンタメ系ブログとして「とーじん日記」を運営している。