岡潔(おかきよし)は天才?奇人変人?数学界の巨人だった!

岡潔(おかきよし)と言えば、文化勲章を受賞したすごい数学者だが、かなりの変人という認識を持っている人が多いと思う。

変人というと「気難しい」というイメージもあり、何となく近寄りがたい人物のように思えてしまうという側面もあるだろう。

ところが彼の人生を紐解いてみると、意外にも人間味溢れるエピソードが多いことに驚く。

真実の岡潔とはどのような人物だったのであろうか。

京都にて、72歳ころの岡潔

最初は物理学志望だった岡潔

岡潔は1901年大阪に生まれた。

尋常小学校時代には飛び級するなど早くからその学才を現したという。

その後、旧制粉河中学校を経て京都の第三高等学校に進学する。

 

数学に関心を抱くようになったのは旧制粉河中学校3年の時だという。

偶然、父の書斎にクリフォードという数学者が著した「数理釈義」を呼んだところ、あまりの面白さに夢中になってしまう。

ところが、京都帝国大学2年生までは物理学志望だったいうから意外である。

 

トントン拍子に京都帝国大学の講師に

数学に転向した岡は、その後順調に過程を終了し、1925年(大正14年)に京都帝国大学を卒業する。

この頃から既に、試験中に難問の証明がひらめくと「わかった!」と叫んで、教室を飛び出していったなどの奇行が目立つようになったと言われている。

とは言いながら、卒業と同時に講師となるなどトントン拍子にキャリアを積んでいるようには思われる。

妻のみちと結婚したのもこの頃である。

 

助教授岡潔フランスへ飛ぶ

岡は1929年フランスへ留学する。

このとき既に京都帝国大学の助教授となっていた岡であるが、この留学には一生をかけて取り組むべき研究対象を探し出すという目的があった。

当時のフランスには新進気鋭の数学者アンリ・カルタンアンドレ・ヴェイユらがおり、彼らとの交流は岡の一生の財産となる。

彼らが岡の理論を高く評価したことで、数学界での岡の名声は不動のものになったのである。

 

複素多変数関数論との出会い

フランスで岡は研究に没頭するあまり一日一食という生活が続くが、生涯の研究テーマとも言える「多変数複素関数論」に出会う。

当時の日本において、複素関数論の主流は一変数であったから、岡は前人未到の領域に踏み込んだことになる。

今日においても、多変数複素関数論はその難解さにおいて偏微分方程式論と同等かそれ以上とも評されるほど難解な分野である。

前人未到の領域であるだけに、岡はほとんど独力で理論を構築し、展開していかねばならなかったのである。

 

未解決問題との格闘と文化勲章

フランスでの留学から帰国した当時の岡は、広島文理科大学助教授という肩書きであった。

この時期、岡は主に多変数複素関数論の未解決問題である「ハルトークスの逆問題」に取り組んだと言われる。

 

最初の5つの論文は順調に仕上がったが、研究に没頭するあまり、一時精神に変調をきたし、精神不安定な状況に陥ったという。

実は、岡は躁鬱病であったという説もあり、躁状態の折りには非社会的な奇行に走ってしまう傾向が指摘されている。

 

ついには、大学での講義にも悪影響が及び、学生からボイコットを受けるまでになってしまう。

岡が休職を決意したのはこのためと思われる。

結局岡は大学を辞職し、郷里に戻って研究に没頭する生活を送ることになる。

 

この孤高の生活に終止符が打たれたのは、1941年(昭和16年)北海道帝国大学に赴任した時であった。

札幌の地で、岡はフランス留学時代からの親友であった物理学者中谷宇吉郎と再開し、旧交を暖めたと言われる。

2人の関係はかなり親密だったことで知られる。

岡は宇吉郎が困窮していると聞くと、様々な援助を惜しまなかったという。

 

その後、1949年(昭和24年)には奈良女子大学に教授として赴任することとなり、1964年(昭和39年)定年退職するまでその職にあった。

奈良女子大学教授であった時期に、岡はハルトークスの逆問題をある制限下において解決した。

そして、その論文で用いられた「不定域イデアル」という概念の重要性がアンリ・カルタンによって認められるのであるが、この一件には裏話がある。

なんと、その論文はプリンストン高等研究所へ赴く物理学者湯川秀樹に託され、アンドレ・ヴェイユに手渡された後、アンリ・カルタンに届けられたというのだ。

世界的な物理学者である湯川が使い走りにさせられるほど、岡の存在感は大きかったことを示す話である。

 

その業績のあまりの偉大さに、ヨーロッパの数学界は一人の数学者の業績とは到底思えず、「岡潔」は数学者集団「ブールバッキ」のようなペンネームに違いないと思い込んでいたという冗談のような逸話が残されている。

この業績から岡は1960年(昭和35年)文化勲章を受賞することとなったのである。

 

あとがき

岡潔というと「奇人変人の天才数学者」というイメージが先行してしまっている感があり、そのため子煩悩な父だったという側面はあまり語られていない。

次女の松原さおりさんは、幼い頃、研究の合間ににっこり笑いながら頭を撫でてくれたり、苦手な算数を教えてくれたりした父を鮮明に覚えているそうである。

もしかすると、凄まじい集中力を必要とする研究生活において、家族とのひとときがささやかなオアシスだったのかもしれない。

(筆者・pinon)

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