江戸時代

巌流島の戦いのいろんな説を簡単にわかり易く紹介、なぜ戦うことになったのか

宮本武蔵と佐々木小次郎の「巌流島の戦い」は有名ですね。

この戦いですが、いろいろな説があって、実は戦っていなかった説や、実は小次郎はヨボヨボのおじいちゃんだった説まで出ているのです。

真実は未だはっきりとわかっていないことですが、武蔵と小次郎の「巌流島の戦い」について、年齢差の詳細、勝者や結末を色々な説を簡単にわかり易く紹介していきますよ。

 

あらすじ、なぜ戦うことになった?

そういえば、そもそもなんで宮本武蔵と佐々木小次郎は戦うことになったのでしょうか?

それは「お互いの弟子たちがどっちの師匠が強いか言い争いになり、いよいよついには決闘になった」なのだそう。

 

これは、「沼田家記」という書物に書かれているそうなので信憑性はありそうです。

この書物は、沼田延元(細川家小倉藩の家老・つまり偉い人)が話した事を弟子が書き記したものです。

本当にそれだけの理由で戦うのかよ?って感じですが、まあこれが全てではないでしょうが、これが発端になったという事らしいので、通説となっています。

 

いろいろな説

謎が多い「巌流島の戦い」。

宮本武蔵が勝利したという事までは聞いたことがあるでしょう。

でもこれだけ有名な決闘なのに、戦いの詳細などはよくわかっていないんですね。

ここでは、この「巌流島の戦い」についてよく言われているいろいろな説について紹介していきます。

 

1 武蔵は戦いにわざと遅刻した?

武蔵が決闘にわざと遅刻した説。

これは「巌流島の戦い」の一番の通説になっていますよね。

武蔵は小次郎をイライラさせて隙をつく作戦で、約束の時間よりわざと遅れて島に到着するというものです。

しかし、これはどうもデタラメっぽいのです。

 

デタラメだと思う理由は、この遅刻説は「決闘があったかなり後(150年くらい後)の書物に、初めて書かれたこと」です。

もっと古い書物らには遅刻したことは一切書かれていないしという事で、信ぴょう性は低いのです。

宮本伊織(いおり・武蔵の養子)が書いた『小倉碑文』には「両雄同時に相会」と書いてあり、時間通りに戦ったことになっています。

 

では、なぜ「武蔵、遅刻説」が通説になっているかというと、

  • 遅刻説をとりいれた、故・吉川英治先生の「宮本武蔵」という小説が大ヒットし有名になった。
  • 江戸時代での歌舞伎で、この説をとりいれた。

このあたりが原因でしょう。

これらの影響はやっぱり凄いのです。

 

2 小次郎のトドメをさしたのは武蔵の弟子?

小次郎にトドメをさしたのは弟子説。

これまた「沼田家記」という書物に記してあるのだそう。(「沼田家記」とは、沼田延元(偉い人)が話した事を弟子が書き記したもの)

  • 武蔵と小次郎はお互い、弟子を誰一人連れてこないで本当の1対1で戦うことを約束した。
  • まさに一騎打ち。武蔵が電撃よりも速い一撃をいれ、小次郎は倒れ、武蔵が勝者となる。
  • 実は武蔵は、隠して弟子たちを島へ連れて来ていた。
  • 小次郎は気絶から回復し起き上がろうとするも、隠して連れて来ていた武蔵の弟子たちに袋叩きにされ撃ち殺される。

これは書物が残っている事と、その書物が発見される前から、弟子がトドメをさしたという事は説としてあったそうなので、「信憑性がある」として、よく言われる説です。

 

3 小次郎はヨボヨボのおじいちゃんだった?

巌流島の戦いの時、小次郎はすでにヨボヨボのおじいちゃんだった説。

これは小次郎の人生について、詳細がはっきりしなさすぎなのがまず問題なのです。

武蔵は1584年生まれであることは史料から明確なのですが、小次郎についてはほとんど何も分かっていないのです。

 

そこで参考にするのが、小次郎が入門していたとされる道場。

この道場が盛んだったのが1560年ごろ。(その道場は朝倉氏の領地で、1573年に朝倉氏は滅ぶ)

推測ですが、小次郎が道場に入門したのが1560年ごろで、その時15歳だったとしたら、武蔵が生まれる頃には小次郎はすでに40歳になります。

「巌流島の戦い」時点での武蔵の年齢は、書物によってバラバラなのですが、一番若くて17歳。老けて29歳。

武蔵が17歳でも、小次郎は57歳。武蔵が29歳なら、小次郎は69歳。

ん~~~ヨボヨボではないにしろ、小次郎は初老を超えたおじいさんだったのでしょうか。かなり年齢差がありますね。武蔵は兵法家としてイケイケの年齢ですけどね。

 

4 そもそも佐々木小次郎は存在しない?

佐々木小次郎は存在しない説。

これは、宮本武蔵の著書「五輪書」に小次郎が出てこないせいで言われています。

五輪書といえば、武蔵の兵法の極意をかいた本のことで、自伝でもあります。

それに大決闘と言われる「巌流島の戦い」のことがなにも書いていないのです。

そのせいで、「巌流島の戦いは、後の創作であり、そもそも佐々木小次郎という人物は存在しない」と一部で言われているのです。

こちらの記事で佐々木小次郎とはどんな人物なのか紹介しています。

>>>佐々木小次郎ってどんな人物?謎に包まれた伝説に剣豪を検証!

 

 

んな感じで諸説ある「巌流島の戦い」。

どれを見ても武蔵が正々堂々とは戦っていないことから、一部で「武蔵は卑怯だ」と言われています。

しかし、武蔵は「兵法家」であって「武士」とはまた違うのです。負けの美学なるものは武蔵にはないのです。

 

兵法家・宮本武蔵については、こちらの記事でわかり易く紹介しています。

>>>宮本武蔵とはどんな人物?五輪書や身長180cmについて




まとめ

という事で、
巌流島の戦いのいろんな説を簡単にわかり易く紹介、なぜ戦うことになったのかでした。

  • そもそも戦った理由は弟子たちの口論が発端?
  • 武蔵は遅刻していない
  • 武蔵が勝者、小次郎が倒れるも、蘇生した小次郎にトドメをさしたのは弟子
  • 小次郎はおじいちゃんだった

こんな感じですね。はっきりわかっていないからこそ、ロマンがあって素敵なのではないでしょうか!

 

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POSTED COMMENT

  1. tomokin より:

    当時の一流の武芸者とも戦っていないのが腑に落ちないですね。勝つ見込みが在るものとしか戦わなかったのでしょうね。

  2. Officer より:

    遅れてきた上に痛いから刺さないでとか言われると動揺するよね なぜ戦うのかわからんけどな

  3. 真実? より:

    「五輪書」に小次郎が出てこないのは何故か?
    正しい勝ちを行っていないから。
    「小次郎に止めを刺したのは弟子」というより、門人の助太刀での勝ちではないかと思われます。(古川古松軒『西遊雑記』)

  4. 林正平 より:

    「波騒は世の常である。波にまかせて泳ぎ上手に雑魚は歌い雑魚は踊る。
    けれど、
    誰か知ろう、百尺下の水の心を。水の深さを。」
    吉川英治が武蔵に与えた評価の言葉です。
    雑魚から大魚になったつもりで武蔵と言う哲学・戦略・芸術を極めた天才が生死を賭けて到達した境地を垣間見ようとしています。それは自分の大きさでしか測れないもののように思えます。

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