斎藤道三(さいとうどうざん)といえば、「美濃のマムシ」と呼ばれていることでも有名ですね。
今回、斎藤道三のかんたんな経歴、司馬遼太郎の小説「国盗り物語」が史実どおりなのか、娘の夫となった織田信長との関係について紹介します。
斎藤道三、プロフィール
斎藤道三(さいとうどうざん)
出身地:不明
生誕:1494年もしくは1504年と諸説あり
死没:1556年5月28日
享年:63歳(討死)
時代:室町時代
何した人?どんな人?
美濃のマムシと呼ばれる斎藤道三ですが、なぜ”マムシ”と呼ばれているのでしょうか。
その理由は、親の腹を喰いちぎって生まれてくるマムシに比喩されているからですね。
斎藤道三は北条早雲らと同じく下克上大名であり、僧侶から油売りを経て、美濃国を統治する存在へとなったのです。
では、斎藤道三のかんたんな経歴を紹介していきます。
かんたんな経歴
斎藤道三は1494年ごろに山城乙訓郡(現在の京都)で生まれたとされています。
生い立ちについては不明な点が多いため、明らかにされておりません。
1526年、33歳となっていた道山に、深芳野(みよしの)が側室となり、1527年6月10日に豊太丸(のちの斎藤義龍)が誕生します。
1532年に明智光継の娘・小見の方(おみのかた)を正室へと迎えています。
そして、父・長井新左衛門尉が亡くなると道山へと家督が譲られます。
この話には様々な憶測がたてられていて、
・道三は長井家の家督を継ぐべき人物である長井長弘を殺害し、長井家の名を乗っ取り、長弘の子孫たちに相続させないようにしたのではないか
・道三が長井景弘を殺害し、長井宗家の名跡を手に入れたのではないか
などと言われています。
まさに「マムシ」らしいといえます。
1535年、のちに織田信長の正室となる帰蝶(濃姫)が誕生します。
1538年、美濃国守護代名の斎藤利良(さいとうとしなが)が病死し、道三は斎藤家を継ぎます。
1541年、斎藤道三は、主君の土岐頼芸(ときよりのり)の弟・土岐頼満を毒殺します。
すると、2人の仲が険悪になってしまい、道山は窮地に陥ります。
が、なんとか盛り返し、1542年に土岐頼芸に攻め入り、頼芸とその子供の土岐二郎を尾張へと追放してしまいます。
これにより、斎藤道三が事実上美濃国の主となり、国盗りを達成したことで戦国大名の仲間入りを果たしたのです。
しかし、追いやられた土岐頼芸も黙ってはおらず、織田信秀の後援を得ると、美濃国へと侵攻し、道山から城を奪います。
1547年、織田信秀が稲葉山城攻めを敢行したのですが、斎藤道山は籠城し、織田軍勢に奇襲を仕掛け、壊滅寸前まで追い込んだのです。これが有名な「加納口の戦い」です。
同年11月、道山は織田信秀と和解し、1548年に娘の帰蝶(濃姫)を信秀の嫡男・信長へと嫁がせます。
そして、道三は織田家の支援を受けて、美濃を完全に制圧、安定させることに成功します。
1554年、家督を嫡男・斎藤義龍(さいとうよしたつ)へとゆずり、隠居生活を始めます。
しかし道三は、側室との子だった義龍よりも、正室の「小見の方」とのあいだの子・斎藤孫四郎や斎藤喜平次らを可愛がっていたため、義龍の廃嫡を考えるようになります。
そして、いつしか道三と義龍の仲が悪くなり、ついに義龍は反逆。斎藤道山の討伐に向かったのです。
このとき、家臣たちのほとんどが義龍の味方に付き、道三は娘婿である信長に援軍を要請したのです。
1556年4月、義龍軍17500、道三軍2500と長良川河畔にて合戦を行ったのですが、信長の援軍が到着する前に道山は討死してしまいました。
しかし、道三は戦死する直前に「織田信長に対して美濃国を譲り渡す」という遺言書をすでに送っていたそうです。
道三は、今まで義龍は無能なヤツだと思っていたそうです。
でも彼と戦をしたことで義龍の凄まじい戦略や戦術を目の当たりにし、過小評価し過ぎていたことを認めたことが明らかにされています。
司馬遼太郎の「国取り物語」は史実どおり?
司馬遼太郎の「国盗り物語」といえば、斎藤道三と織田信長の2人をクローズアップした小説ですよね。
この小説に描かれていることは史実どおりなのでしょうか。
結論からいうと、フィクションがかなり含まれているようです。
私たちが知っている「国盗り物語」は、ある1人の油売りが身を起こして美濃国を手に入れた斎藤道山と、尾張一国から天下布武を推し進めた織田信長の2人を主役とした作品です。
しかし、当時は斎藤道三の生涯を描く作品だったそうです。
よく「国盗り物語」は史実どおりだと言われておりますが、実際は物語のほとんどがフィクションとなっています。
例えば、斎藤道三編では、彼が一代で成し遂げたと表現されています。
しかし、実際は、親子2世代がかりで成し遂げた偉業であることが近年の研究で明らかにされました。
また、織田信長の手本となったとされている楽市楽座などの政策は行われていなかったことも分かり、司馬遼太郎の「国盗り物語」には史実とやや異なる点があることが分かります。
ただ、読み物としてはとっても素晴らしい作品ですので、この機会に1度読んでみてはいかがでしょうか。
娘と織田信長は夫婦関係?
濃姫といえば、織田信長の正室ですね。
この濃姫は、斎藤道三の娘なのです。
1548年に、濃姫は信長の正室として嫁いでいます。
道三が娘を嫁がせた理由は、自身が美濃(岐阜県)から追放され、尾張(愛知県)に身を寄せる土岐頼芸による干渉を無くすために、尾張一国を統治する織田家と同盟を結ぶために行ったとされています。
つまり、思いっきり政略結婚ですね。この時代では、ごく当然のことです。
このとき、道三は嫁がせる前に娘へ懐刀をプレゼントし、「もしも信長がまことのうつけ(馬鹿)であったなら、この刀で信長を刺し殺せ」と言います。
彼女はそれに対し「承知しました。ですが、この刀、父上を刺す刀になるやも知れません」と答えたと言います。
濃姫の胆力がうかがえるエピソードですね。
娘を嫁がせたあと、道三はあるお寺にて信長と会うことになります。
当時の信長といえば「大うつけ」という評判が広まっていたため、どんな人物なのかを自身の目で確かめたかったのではないかと言われています。
そして、道三は信長が到着するよりも早くお寺へと入り、彼がどんな格好でやってくるのかじっと待ちました。
しばらく後、寺へとやってきた信長の恰好は「うつけ」の評判そのものであり、道三はガッカリしました。
ですが、対面の場に現れた信長の恰好は、しっかりとした装束を身に纏っており、しかも立派な軍容をしていたため彼はとっても驚いたそうです。
信長と初めて会った道三は彼を高く評価し、家臣たちに「我が子たちは信長の門前に馬をつなぐことになるだろう」と話したと言われています。
そして数年後、道三の遺言状には「美濃国の大桑においては、終には織田上総助の存分にまかすべく、譲状、信長に対し遺はすその筈なり」と書き残したそうです。
「織田信長に対して、美濃国を譲り渡す」といった内容ですね。
ちなみに、濃姫と信長の夫婦関係ですが、詳しい史料が発見されておらず、本能寺の変で共に亡くなった説や信長とのあいだに授かった子どもが女の子であったため、離縁された説など様々な仮説が立てられています。
ゲームや小説の中では、戦国時代のベストカップルとして描かれておりとっても幸せそうですよね。
こちらの記事で、濃姫についてかんたんにわかり易く紹介しています。
まとめ
斎藤道三を5分で!司馬遼太郎の小説は史実?織田信長との関係は?でした。
斎藤道三をかんたんに語るポイントは、
・親子2世代に渡って美濃国を手に入れた
・息子・義龍との戦・「長良川の戦い」にて討死した
・司馬遼太郎の小説「国盗り物語」はフィクションである
・織田信長に娘を嫁がせて正解だと思っている
最後まで読んでいただきありがとうございます^^