戦国時代

信長は浅井長政の頭蓋骨をコップにしてた?小谷城の悲劇って?

魔王キャラ信長としてゲームに出てくる織田信長。

浅井長政の頭蓋骨をコップにしたという噂があります。それは本当なのでしょうか。

切っ掛けになった小谷城の戦いも含めて、本来の信長らしいエピソードとコップ事件を紹介していきましょう。

 

信長が浅井長政の頭蓋骨をコップにしてた?

長といえば、行動がめちゃくちゃすぎて家臣にはあまり理解されていませんでした。

農民には人気があったのですよ、気さくで女装してお祭り盛り上げてくれるお殿様ですから。

 

ふつう、武士が相手の首をコップにする、それはまずないです。

首は御首級(みしるし)といいまして、敵を討った証拠に主人に見せます。その時、女子供たちは、首に死に化粧をします。

口に紅、顔はおしろい、出来るだけ生きていたころと同じに、血色よく見えるようにするのです。

経文を唱えながらです。気持ち悪いという考えは、当時は全くないようですね。

この一例を軽んじたものは軽蔑されます。

 

で、信長の頭蓋骨コップ事件でしたね。

これは、本当のことのようです。記録にも残っているとのこと。

信長は、長政の頭蓋骨を金箔にして飾っていたのです。

でも金ピカ髑髏を、宴の場に飾っていただけで、それをコップにしたというのはデマのようです。

この行為の意味するものは、死に化粧の意味もあって、相手を尊敬してとのこと。

口はつけていませんし、侮辱も記録にはありません。最後に一緒にお酒を飲んで送り出すのです。

現代では、ちょっと理解しにくいかもしれませんね。

 




小谷城の悲劇って?

谷城の戦いといえば、1573年。信長が秀吉らに命じて、裏切り者の浅井長政らを討った戦。

そこで長政は自害して死んでいます。小谷城の悲劇となったわけです。

 

元々織田と浅井は同盟関係にあったのですが、信長は、浅井と仲良しな朝倉を攻めたのです。朝倉を攻めないという約束を、信長が勝手に破って徳川と共に攻め入ったのです。

これがきっかけで、浅井はとうとう織田とはやってられなくなり、朝倉側につき、戦に参戦したというもの。

浅井長政はこの時、織田につくか、朝倉につくか、めっちゃ悩んだそうですが、父に「朝倉につけ」といわれ納得しています。

戦では、織田は浅井を敗走させ、小谷城に引きこもらせます。

難攻不落といわれた小谷城ですが、墜落。

長政も覚悟を決め、自決しました。

この時、妻のお市の方や娘3姉妹は、長政の意見もあり、織田に引き取られています。(妻・お市の方は信長の妹)

 

関連人物:

 

まとめ

頭蓋骨をコップにしてた事、小谷城の悲劇の事について紹介しました。

コップにして口をつけていたわけではないようですが、頭蓋骨を金ピカにして飾っていたことは本当のようですね。

小谷城の悲劇で、長政は死にましたが、最後は妻と娘達を逃がすなど、やはり男前。

華やかに死んでいったのですね。

 

ということで、
信長は浅井長政の頭蓋骨をコップにしてた?小谷城の悲劇って?でした。

 

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