緒方洪庵(おがたこうあん)と言えば、江戸後期に医師、蘭学者として活躍した人物です。
洪庵が創立した『適塾』では幕末から明治維新、明治新政府で活躍した人物が多く出ています。
大ヒットドラマ『仁-JIN』では、あの武田鉄矢さんが演じていましたね。
今回、緒方洪庵のかんたんな経歴、ペニシリンとの関係、杉田玄白との関係について、紹介していきますよ。
緒方洪庵、プロフィール
緒方 洪庵(おがた こうあん)
生誕 1810年5月13日(文化7年7月14日)
死没 1863年7月25日(文久3年6月10日)
享年 54歳
時代 江戸後期墓所 大阪府大阪市北区同心1丁目
『龍海寺』
東京都文京区向丘2-37-5
『高林寺』
かんたんな経歴、何した人?どんな人?
緒方洪庵は、1810年に、備中(びっちゅう・現在の岡山県)に生まれました。
16歳で、大阪にある蘭学塾(オランダ文化を学ぶ塾)の『思々斎塾』に入門します。
そこで4年間、蘭学を学び、特に医学を学びました。
その後、大阪から江戸へ行き、医者の坪井信道(つぼいしんとう)、宇田川玄真(うだがわげんしん)のもとで、さらに医学を学びます。
そして今度は、長崎に行き、オランダ人医師ニーマンのもとで医学を学びます。
この頃から緒方洪庵と名乗るようになります。
1838年、28歳となった緒方洪庵は、大坂で医業を開業しました。
それと同時に、蘭学塾『適々斎塾(適塾)』を開きました。。
塾は人気になり、門下生が増えすぎて瓦町の屋敷が狭くなるほどでした。
門下生には、
福沢諭吉(慶應義塾大学創始者)
高松凌雲(日本で初めて赤十字の活動を行う)
佐野常民(日本赤十字創設)
大鳥圭介(幕臣から明治新政府高官)
橋本左内(安政の大獄で斬首)
大村益次郎(村田蔵六・日本陸軍の祖)
長与専斎(日本の衛生行政の祖)
など、幕末から明治維新にかけて大活躍した人物たちがいます。
その後、塾の運営を塾頭に任せると、洪庵は医師として予防接種、特に天然痘の予防接種に力を入れ、天然痘の撲滅を目指します。
洪庵自身も8歳のとき天然痘にかかっていました。
佐賀藩が輸入した種痘(しゅとう・予防接種)を京都で入手します。
大阪市で『除痘館』を開き、天然痘の予防接種を始めました。。
1858年、洪庵の天然痘予防の活動を幕府が公認しました。
その後、「江戸で働いてほしい」と、幕府に何度もお願いされます。
そのため江戸で勤め、「奥医師兼西洋医学所頭取」として『法眼』の称号(医者のトップの位)をもらいました。
医師としての最高位ですから、とても凄いことです。
最期は、江戸の医学所頭取役宅で、突然喀血(かっけつ)し、窒息により亡くなりました。
ペニシリンは緒方洪庵がつくった?
ペニシリンといえば、大ヒットドラマ『仁-JIN』を思い浮かべる人も多いでしょう。
主人公が緒方洪庵と制作する薬ですね。
ドラマでは、病原菌「コロリ」による流行病がとても流行っていてペニシリンが大活躍するのでしたね。
では、このペニシリンは実際に緒方洪庵がつくったのでしょうか。
実はこれ、違います。事実ではありません。現実では緒方洪庵がつくったものではないのです。
ペニシリンは1928年にイギリスのアレクサンダー・フレミングによって発見された、「世界初の抗生物質」です。
1863年に亡くなっている緒方洪庵には作ることが出来ません。
ちょっぴり残念ですね。(・∀・)
杉田玄白との関係は?
緒方洪庵と杉田玄白との関係について。
同じ蘭学者として有名なふたりですが、直接的な関係はありません。
杉田玄白は1733年に生まれ、1817年に死没。
緒方洪庵は1810年に生まれ、1863年に死没。
杉田玄白が亡くなるときは、緒方洪庵は7才ですね。直接的な関係はないのがわかるでしょう。
ただ、緒方医学化学研究所には緒方洪庵のものだけでなく、杉田玄白の貴重な蘭学資料を「蘭学文庫」として所有し公開しています。
杉田玄白が学んだ蘭学を、緒方洪庵も同じように学んだのだと思われます。
言ってみれば、杉田玄白は大先輩ですね。
杉田玄白といえば、蘭学者であの「解体新書」を和訳し刊行した人です。
こちらの記事で杉田玄白について、わかり易くまとめています。
>>>5分で杉田玄白について!おもしろエピソード、解体新書ってなに?
まとめ
ということで、
5分で緒方洪庵について!ペニシリンや杉田玄白との関係は?でした。
緒方洪庵についてかんたんに語るポイントは、
・天然痘の撲滅に力を入れ、日本で初めて種痘(予防接種)を始めた
・大阪に開いた私塾『適塾』では多くの偉人を輩出した
・江戸に勤め、医者のトップの位である『法眼』の称号をもらった
・ペニシリンは緒方洪庵がつくったものではない
・”日本の近代医学の祖”といわれている
最後まで読んでいただきありがとうございます^^