〜ネット上では大人気 不屈の闘将・小田氏治〜
『坂東の武者を相手にするときは、日本全土の武者を以て相対すべし』
これは、関東の武士団の屈強さを表現する言葉でした。
戦国時代、関東は正しくこの強力な武士団が鎬を削る戦乱の地でした。
しかし、戦国時代も後期になってくると、関東も有力な大名が統治する地に変わってきました。
その有力大名とは、常陸の雄・佐竹家 関東の覇者・北条家、そして関東統治のお墨付きを得た越後の軍神・上杉家。
この3家が覇を競う場となっていったのです。
しかし、この強力な3家全てに戦いを挑んだ男がいました。
その男とは、常陸・小田城主 小田氏治(おだうじはる)です。
今日は、(無謀にも)強力な3家に戦いを挑んだ男の物語を紹介していきましょう。
初陣は川越夜戦
小田氏治は、関東八屋形と呼ばれるかつて源頼朝から関東の地に領地をもらった名門八家のうちのひとつ・小田家の当主です。
父の小田政治は、小田家をリードし、常陸に小田家ありと知らしめた名将でした。
その父の後を継いだ氏治も将来を嘱望されていました。
この氏治の初陣は、日本合戦史上に名高い川越夜戦です。
氏治は、この時、北条家の敵方・足利政知、山内上杉家、扇谷上杉家の連合軍8万の側として参加しました。
一方、守る北条家は、総勢8千。
この戦は、偽りの和睦を申し出た北条氏康の提案を拒否した上に戦勝気分に勝手に浸った連合軍側が氏康の夜襲に遭い、こてんぱんに負けた戦でした。
この時、氏治もほうほうの体で所領・小田城に帰還します。
何となく、この後の人生を暗示しているような初陣でした。
結城家 佐竹家との抗争
その後、家督を継いだ氏治は、近隣の雄・結城家や常陸統一を目指す佐竹家との抗争を繰り広げます。
結城家との戦いでは、支城の援軍に氏治自らが兵を率いて駆け付けよとします。
しかし、その途中、結城家主力と遭遇。
小田軍は大混乱に陥って、大敗。何と本城の小田城まで奪われるという最悪の事態に陥りました。
その後、小田城は奪還に成功するものの、次に対したのは常陸の雄・佐竹家でした。
1557年、佐竹家が小田城支城を攻撃します。
そこで、氏治は当主自らが……。同じ過ちを犯したようで、小田城を落とされます。
しかし、これも不屈の魂で小田城を奪還するのです。
その後、結城家では当主の政勝が急死し、混乱していました。
この混乱に乗じて、氏治は結城家に攻め込んだのです。
この時の結城家はさすがにまとまれず、氏治の前に押されました。
しかし、この時、佐竹家が結城家への援軍に、猛将・真壁氏幹を送ります。
この氏幹の前に小田軍は大敗を喫し、逆に領土の一部をかすめ取られてしまいます。
こうした弱さで目立つ小田氏治に味方するものはなく(巻き込まれたくないので)、氏治は関東の中で孤立し、滅亡の危機に瀕したのです。
しかし、この氏治に救いの神が現れました。
それが、関東管領に就任した越後の軍神・上杉謙信でした。
謙信は、北条家討伐に関東を訪れました。
そして、謙信の前に佐竹家も結城家も、小田家も臣従し、その傘下に加わったのです。
謙信は、関東諸将の争いを仲裁し、氏治には小田家旧領を戻します。
これで氏治は当面の危機を脱したのですが、1つ問題が起こります。
謙信の本拠地は、越後春日山です。
謙信が越後に戻ったあとは、再び佐竹家や結城家との争いになるのは必定でした。
そこで、氏治は、謙信が越後に帰った後、自らの後ろ盾となってもらうべく、北条氏康に接近します。
しかし、この動きは謙信の知るところとなってしまいました。
謙信激怒
この氏治の動きに謙信は激怒しました。
そして、再び謙信は軍勢を率いて、関東にやってきたのです。
その目的は「小田氏治討伐」でした。
戦国最弱ともいえる氏治が、戦国最強と言われる謙信と戦うことになったのです。
この圧倒的不利な状況で、氏治は賭けに出ました。
何と氏治は、大河を背にして陣を敷いたのです。
古の中国で、漢の名将・韓信が執った作戦で、寡兵が大軍に勝とうとしたのです。
結果は……、はい予想通り。圧倒的に不利な状況で、さらに不利な地を陣を敷いて、勝てる道理はありませんでした。
小田軍は完膚なきまでに叩かれ、再び、小田城は落城します。
しかし、謙信の帰越後、氏治は再び小田城を奪還します。
佐竹家との抗争再び
本国に帰った謙信でしたが、氏治を許していませんでした。
謙信は同盟関係にあった佐竹家に氏治討伐を命じます。
この時、それまでの当主佐竹義昭は亡く、嫡男の義重が継いでいました。
この義重は「鬼義重」とされるほどの武勇を誇っており、氏治の軍勢を難なく蹴散らします。
その後も、佐竹家の猛将・因縁の深い真壁氏幹が寡兵で攻めてくると、周りが「絶対に伏兵がいます」という進言しても、
氏治は耳を貸さず突撃→お約束通りに伏兵にやられて惨敗。その後、小田城落城→氏治奪還
さらに、忘年会の隙を佐竹勢につかれて、小田城落城。
その後奪還。
など、様々なケースで落城→奪還というお約束が繰り返されます。
氏治の人生で小田城を落とされること9回にも及びました。
しかし、その全てで奪還しています。
もう、凄いのか、弱いのかわかりません。
秀吉には勝てなかった(今までも勝ってないけど)
しかし、こうして関東で氏治が佐竹義重と抗争を繰り広げている間に、世の中は大きく変わっていました。
天下は豊臣秀吉の手にありました。その最後の総仕上げに、1590年、秀吉は小田原攻めにかかりました。
この時、氏治は……、いつものように小田城攻防戦を佐竹勢と行っていました。
しかし、この時、既に佐竹義重は秀吉に臣従していました。
その佐竹家と戦ったことが、秀吉への反逆とみなされてしまったのです。
このため、小田家は滅亡しました。
あれだけ執念を燃やして奪い返していた思い出の小田城に戻るこてはできなくなってしまったのです。
それは残念なことでしたが、しかし、氏治は、奇跡を起こしたのです。
それは、畳の上で死ねたことでした。
小田家滅亡後は、氏治は因縁の深い結城家を継いだ徳川家康の次男・結城秀康に仕え、越前で亡くなりました。
氏治が敵対した相手は、北条氏康、佐竹義重、上杉謙信、そして、豊臣秀吉でした。
しかし、これだけのビッグネームを相手にしても、氏治は何と天寿を全うできたのです。
稀有の存在でした。
これが、常陸の不死鳥と(ネット上で)綽名される所以です。
戦国独特な魅力をもつ武将・小田氏治。
希望を失わない人生というものは尊いのだと我々は教えられているような気がします。
(筆者・黒武者 因幡)