池田輝政ってどんな人物?家康の婿で寡黙ながら勇ましかった!

〜寡黙ながら勇ましい家康の婿!池田輝政の生涯に迫る〜

池田輝政という人物は秀吉や家康に重用され、江戸幕府内で繁栄していくことになる池田家の地位向上に大きく貢献した大名です。

秀吉や家康の家臣には著名かつ特異な逸話をもつ武将が多いため存在感は決して大きくはありませんが、両名から極めて厚遇されたことでも知られています。

 

また、現代でも観光名所として知られる姫路城を大規模改装し、我々が見ることのできる姫路城の姿を作り出したのも輝政でした。

そこで、この記事では天下人に愛された輝政の生涯を史料に基づいて分析し、その実像に迫りたいと思います。

肖像・池田輝政

出生および信長家臣としての活躍

永禄7年(1564年)、信長に仕えた池田恒興荒尾善次娘の次男として輝政は生まれました。

幼名は古新といい、輝政を名乗るようになったのは元服後のことです。

また、輝政という名を使い始める前には「照政」を名乗っていたという記録も確認されています。

 

信長に仕えた父同様、輝政も信長家臣の一員として戦に参戦していくことになります。

荒木村重の乱に際しては若くから活躍を見せ、天正8年(1580年)の花隈城の戦いで軍功を挙げたことにより信長から感状が与えられています。

こうして信長家臣として存在感を発揮していた輝政でしたが、本能寺の変勃発による信長の殺害に伴い羽柴秀吉に仕えることを選択します。

そして、秀吉が山崎の戦いで勝利したことにより輝政の地位も保証され、天下人の家臣として列せられるようになります。

 

兄弟の死により家督を相続し秀吉家臣として厚遇される

こうして秀吉家臣となった輝政でしたが、彼は次男であり家督は兄の元助が継ぐことになっていました。

しかし天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いにより父恒興と兄元助を同時に失うという悲劇に見舞われます。

そのため、戦死した兄に代わって輝政が家督を相続し、美濃国10万石の大名となりました。

 

その後は小田原攻めや九州平定など秀吉の主要な戦に従軍し、秀吉から厚遇されていました。

その証拠に、天正15年(1587年)には秀吉より羽柴姓を与えられています。

さらに、天正16年(1588年)に当時の後陽成天皇が秀吉のもとを訪れた際には馬上で秀吉に付き従い、同時に豊臣姓を与えられています。

当時は姓や名を与えられることが一種の名誉であったため、ここから豊臣政権における輝政の立場が見てとれます。

 

天正18年(1590年)には奥州仕置に参加し、その功績から三河国15万2000石に加増されます。

同時に三河吉田城主となった輝政は、このころから秀吉の息子である豊臣秀次の近侍に列せられていたと考えられており、朝鮮出兵に際しても朝鮮に向かうことなく国内警備や物資の輸送・調達を担当しました。

この待遇はもはや豊臣家一族の待遇と同様のものがあり、その証拠に輝政は秀吉の命で家康の娘督姫を継室(けいしつ:正室と離別・死別した際の後妻)としました。

ただ、それまでの正室であった糸姫は体調不良により実家に帰されたというのが実情で、離別後も彼女の実家・中川家との関係は良好であったと伝わります。

 

さらに、輝政が近侍した秀次は「秀次事件」によって処刑され彼に関わった多くの人物が連座されていますが、輝政や彼の妹で秀次の正室であった若政所は例外的にその罪を許されています。

 

関ケ原で功を上げ、池田家発展の基盤を形成した

秀吉が死ぬと、輝政は義父の家康に付き従いました。

早くから家康に味方することを表明していた輝政は、敵対する石田三成方への妨害工作にも従事しています。

関ケ原本番でも功を挙げた輝政は、その功績として播磨姫路52万石という大幅な加増を伴う領地替えを命じられています。

 

さらに、家康との血縁関係が輝政の地位を高めていきました。

輝政は領地・官職ともに外様大名としては最高クラスであり、外様大名として初めて「松平」の姓を名乗ることを認められています。

 

こうして政治的に安定した立場を手に入れる輝政は、領地の整備や天下普請(江戸幕府の管理下で行なわれる大規模な土木工事)に力を入れていきます。

その過程で姫路城の大規模改修が実施され、現在の姿に形作られました。

 

最終的に、輝政をはじめとする池田家一門は実に92万石を領有し、江戸時代においても繁栄していくことになります。

輝政本人は慶長18年(1613年)に亡くなりますが、池田家の発展に欠かせない人物であったといえるでしょう。

 

まとめ

輝政は兄や父を戦場で失うという不幸にも見舞われながら、巧みな処世術と縁組の力を利用して池田家を大いに発展させていきました。

しかし、性格は寡黙で功を主張しない謙虚な人物であったとされ、家臣にも寛容に接していたとされています。

 

ただし、縁組の力で成り上がったことを揶揄されることもあったようで、福島正則からは「お主は槍ではなく一物で国を得た」と嘲笑されました。

この際、輝政は「確かにその通りだが、私が槍を振るえば天下を取ってしまったよ」と返したと伝わっています。

 

【出典】
谷口澄夫『池田輝政』吉川弘文館、1987年。
岡田正人『織田信長総合事典』雄山閣、1999年。
谷口克広『織田信長家臣人名事典』吉川弘文館、2010年。

(筆者・とーじん)

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