戦国時代

夏目吉信とは 徳川家康の命を救った男

徳川家康の命を救った男~夏目吉信~

戦国時代を制し、最終的な天下人となり、江戸幕府を開いた徳川家康。戦国時代の覇者となった家康ですが、順調に勝ち続けてきたわけではありませんでした。

むしろ、命の危機に何度も直面し、その度に立ち上がってきたのです。

その栄光の陰には、家康を支え続け、時には家康を守るために自らを犠牲にした家臣たちの存在がありました。

今回は、その中でも、家康が生涯感謝し続けた夏目吉信という武士をご紹介します。

夏目吉信を讃える石碑 肖像は残念ながら残っていないようです

 

鉄の結束を誇る三河武士……のはずが

家康は幼いころに人質生活を送りました。最初は織田家に送られ、その織田家の人質となりました、その後、織田家と今川家の間の人質交換で今川家に送られました。

その間、三河の武士たちは、家康の帰りを待ち続けました。

度重なる戦で貧しくなり、刀を捨て、田畑を耕すことになっても、家康が三河に戻る日を信じて待ち続けました。

家康が今川義元から危険な戦陣を任されても、家康が武功を上げて、三河に戻る日を夢見て、家康のために戦場で散っていった武士も多くいました。

 

その三河武士の悲願である家康の帰還が実現したのは、1560(永禄3)年の桶狭間の戦いの折でした。

この戦いで、今川義元織田信長の前に討死しました。その間隙をついて、家康は三河の岡崎城に帰還し、今川家からの独立を果たしたのです。三河武士たちの喜びはいかばかりだったでしょうか。

 

しかし、この3年後、鉄の結束を誇った三河武士同士が戦うという事態が発生しました。

1563(永禄6)年の三河一向一揆です。家康と一向宗が対立したことをきっかけに、三河武士の中にいた一向宗信者の家臣たちが、家康に背いて一向宗についたのです。

 

この時、家康は自ら軍勢を率いて、一向宗と戦っています。かつて自分の帰還を待ち望んでくれた家臣たちと今度は戦わねばならない家康の心境も辛かったでしょう。

信仰をとるか、忠誠をとるかで三河武士が割れた三河一向一揆

 

この時、家康に背いた三河武士の中に、夏目吉信がいました。

吉信は、前年に家康から撤退戦で殿(しんがり)で軍勢を守り切った武功により脇差を賜るほどでした。その吉信も信仰上の理由で家康と敵対したのです。

 

しかし、吉信は戦いの最中に捉えられました。吉信をとらえた松平伊忠は、吉信の武勇を惜しみ、自らの与力にした上で、家康に助命と復帰を嘆願し、認められました。

それだけでなく、一向宗と和睦した家康は、自分に背き敵対した三河武士たちの罪を一切問わないという寛大な処置を行いました。

吉信は、家康に敵対したことを恥じ、一向宗を捨てて改宗し、再び家康に仕えたのです。

 

戦国最強 武田軍団来襲

三河一向一揆による家臣団の分裂の危機を乗り越えた10年後、家康に人生最大の危機に陥ります。

三方ヶ原合戦図

この時、家康の傍に吉信が駆け寄り、撤退するように進言します。しかし、家康は聞き入れず、決死の突撃を敢行しようとしました。

そこで、吉信は説得を諦めて、実力行使に出ました。家康の馬の向きを強引に変え、その馬の尻を思いきりひっぱたき、城に向けて走らせます。

 

また、一説にはこの時、家康の兜を脱がせて、自らの兜と交換したともいわれています。

そして、吉信は周辺の騎馬も引き連れ、「我こそは徳川家康なり」と叫び、武田軍に向かって突撃し、討死しました。

主君に反逆したことを不問に付し、変わらぬ取り立てをしてくれた家康のために吉信はいつでも死ぬ覚悟を抱いていたのでしょう。

――その時は今――とばかりに吉信は恩に報いようとしたのです。

吉信が身代わりとなったおかげで、家康は虎口を脱し、命を取り留めました。

三方ヶ原の失敗を生涯忘れないために描かせた家康の「しかみ像」

 




時は流れて

1615(慶長20)年、大坂夏の陣で、家康は大坂城を攻め、豊臣秀頼を自害させました。

これで家康に逆らう勢力は無くなり、戦乱の世は終結しました。その時、家康は、吉信の五男である吉次を本陣に呼びました。

そして、「儂が今こうして天下を手にできたのも、お前の父のおかげだ。感謝している」と声をかけました。

それだけでなく、吉次を後継ぎの秀忠の家臣とし、新しい国づくりに貢献するように命じたのです。

吉次はかつて、徳川家を出奔したものの父・吉信の功績を考慮した家康から帰参を許された過去がありました。

それだけでなく、秀忠の直接の家臣とされたことを名誉に感じ、吉次以後の夏目家当主は、徳川将軍家への忠節を全うし、幕末を迎えました。

 

ちなみにこの夏目家の血筋から、のちの文豪・夏目漱石が誕生しています。

文豪・夏目漱石は吉信の子孫です

 

家康のために命をかけた人物といえば、他にも長篠の戦いで、籠城する長篠城兵に援軍来たるを知らせて磔にされた鳥居強右衛門は、子孫が代々、松平忠明に仕え、家老職を務めるなど重用されています。

また、関ヶ原の戦いにおいて、伏見城に籠城し、討死した鳥居元忠は息子が出羽山形藩22万石の大名にまで抜擢されています。

家康のために命を懸けた家臣とその忠節には必ず報いる家康。その関係は、やはり鉄壁といってもいいように思えます。

こうした主君だからこそ家臣たちも命を懸けて仕える価値があると感じていたのでしょう。

ABOUT ME
黒武者 因幡
歴史ライター。有名な人物から地域のちょっとした人物まで、その生き様やドラマを描く。 特に幕末や戦国期に関しては敗者に肩入れして書き上げるのが得意。謀反や裏切りに関しても、人間臭く書く。