〜傾奇者として知られているが果たしてその実像は?前田慶次(利益)の生涯に迫る!〜
『花の慶次』などの漫画の影響で戦国武将の中でも高い知名度を誇る人物。
それが前田慶次です。創作などでは大男として描かれ、豪気な性格や一級品の戦の腕前を生かして戦場を駆け回ります。
その一方で「傾奇者」として知られているように、時の権力者を前にしても無礼な振る舞いを見せる一面や、風流を愛し教養人として知られる一面をも持ち合わせた人物として描かれることもあります。
しかし、結論から言えば「前田慶次」という人物の逸話や伝説の大半は後世の創作であるとされ、彼の実像についてはその大半が謎に包まれているというのが実情です。
そこで、この記事では前田慶次の実像を、史料を基に考えていきます。
名前や出自どころか、大男かさえも定かではない?
まず、「慶次」という名前を名乗っていたことは事実ですが、一方で彼はさまざまな通称を使い分けています。
慶次が用いた、あるいは慶次を指していると思われる通称は、啓二郎・利貞・慶二・利卓・利益など、実に多様なものがあります。
また、慶次の生年もハッキリとは分かっておらず、おおよそ天文元年~天文10年(1533~1541)ごろであるということが辛うじて分かる程度です。
さらに、父は織田家に仕える滝川氏の一族であることは分かっていますが、具体的な人物については確定されておらず、滝川一益の親戚筋にあたる人物が実父であるという説が有力です。
ただ、養父が前田利家の兄前田利久であることは判明しており、滝川氏としてではなく主に前田氏の家臣として創作に登場するのはこうした事情によるものです。
このように様々なことがハッキリと分かっていない慶次ですが、極めつけは「大男ではないかもしれない」という見方が有力になっています。
創作における慶次は必ずと言っていいほど大男として描かれますが、当時の史料から大男であることを裏付ける記述はなく、また彼のものとされる甲冑も平均的なサイズをしていたと考えられています。
滝川氏・前田氏の家臣として活躍したが利久の死により前田家を離反
史料で判明しているところでは、慶次はまず滝川氏の家臣としていくつかの戦に参加しています。
滝川家臣としては本能寺の変や小牧・長久手の戦いに参戦しましたが、創作で知られているような大功を挙げたかどうかは定かではありません。
その後、滝川氏の勢力低下と利久の病没に伴い利家に仕えると、利家が参戦した豊臣家の天下統一事業に家臣として参加したとされています。
ただし、天正18年(1590年)ごろになると利家と不仲になったため前田家を出奔したとされています。
この「利家・慶次不仲説」は創作でも必ずと言っていいほど採用されるため有名なものですが、研究者によっては仲たがいの事実を否定する見方もあります。
出奔後の慶次は「似生」と称し、京都で浪人生活を送る傍ら和歌詠みの会に多数参加したと記録が残されています。
そのため、慶次が風流を愛する教養人だった、という側面に関しては事実と考えてもよさそうです。
また、浪人時代には「穀蔵院瓢戸斎(こくぞういんひょうとさい)」や「龍砕軒不便斎(りゅうさいけんふべんさい)」などの奇名を名乗っていたという説もあり、慶次の逸話は創作が多いとはいえ「傾奇者」の側面も確かにあったようです。
晩年は上杉家に仕え米沢の地で生涯を終える
関ヶ原の戦いが勃発する頃になると、友人とされる直江兼続との縁から会津上杉家に仕えるようになります。
最上家との戦となった長谷堂城の戦いなどでは戦果を挙げたとされますが、やはり上杉仕官時代の詳細な働きはわかっていません。
その後、上杉家が関ケ原に敗れたことで米沢に減封されると、慶次もそれに付き従って米沢藩に仕官します。
晩年は米沢近郊の堂森と呼ばれた地域に隠居し、兼続と共に中国古典の『史記』に注釈を入れ、和歌を楽しみながら過ごしたと伝わっています。
慶次は慶長17年(1612年)ごろまで生きていたとされ、「人世五十年」とされた当時の人物としては長寿の部類に入りました。
ただし、慶次の奇行は米沢隠居後も治ることがなく、たいそう評判になっていたとされています。
まとめ
今回の記事では、創作で知られているような慶次ではなく、史実から見て取れる等身大の彼の姿を分析してきました。
この記事内容からも分かっていただけるように、慶次の「伝説」には真偽が確かでないものも非常に多いです。
しかし、その一方で「傾奇者」であるということや、風流を愛する教養人であったことはどうやら事実なようです。
そのため、筆者の想像ですが慶次の伝説はそうした「風変わりな姿」というものがしだいに「盛られて」いき、現代のような「大男で無類の強さを誇ったいくさ人」というイメージが付与されたのではないかと思います。
とはいえ、慶次が果たして本当に天下無双のいくさ人であった可能性も当然あります。記録が残っていないから真実ではない、とは限らないからです。
【出典】
池田公一『戦国の「いたずら者」前田慶次郎』宮帯出版社、2009年。
今福匡『前田慶次-武家文人の謎と生涯』新紀元社、2005年。
(筆者・とーじん)