狩野永徳(かのうえいとく)といえば、織田信長や豊巨秀吉につかえ、豪華絢爛な桃山文化の象徴で日本を代表する画師です。
パワフルで今にも飛び出してきそうな唐獅子図や、2500人もが詳細に描かれている洛中洛外図が有名です。
今回、狩野永徳のかんたんな経歴、「唐獅子図屏風」はなぜ国宝じゃない?について紹介していきますよ。
狩野永徳、プロフィール
名前:狩野永徳(かのう えいとく)
出身地:京都
生誕:1543年2月16日
死没:1590年10月12日
享年:48歳(過労死)
時代:室町時代から安土桃山時代
かんたんな経歴、何した人、どんな人?
狩野永徳は、1543年に父・狩野松栄の長男として京都に生まれます。
永徳の生まれた家は、代々、画家の一家で、室町時代から明治維新を迎えるまでの約400年にわたり日本の絵画界の中心として活躍しました。
ひいおじいちゃんは、室町幕府御用絵師で狩野派の祖とされる狩野 正信(かのう まさのぶ)。
おじいちゃんは、狩野派の基礎を築きあげた狩野 元信(かのう もとのぶ)。
そしてお父さんは、狩野派の伝統を堅実に受け継ぎ永徳をサポートした狩野 松栄(かのう しょうえい)。
画家として、誰よりも磨き抜かれた高い芸術性のDNAを持っていたのです。
幼い頃からその才能は開花されており、繊細かつ優雅で迫力ある絵を描き上げる永徳を認めた父は、狩野派トップの座を永徳にゆずり渡します。
永徳は若きリーダーとして狩野派、そして日本美術界をリードしました。
天下人である織田信長や豊臣秀吉も、その実力に惚れ込みました。
信長が作った安土城、秀吉が作った大阪城と聚楽第の障壁画も描き上げました。
他にも後陽成天皇の御所や、公家の近衛前久邸の障壁画も描いており、名実共に永徳は日本絵画界のトップとなりました。
最期は、京都の東山にある東福寺の天井画を描いている間に、病気で画が未完成のままに亡くなりました。
死亡理由は、過労によるものとされており、全ての作品に渾身の力が込められていたことを伺えます。
作品のほとんどは建物と一緒に戦火によって焼失してしまいました。
狩野永徳が死んでからの狩野派は、徳川幕府の御用絵師として活躍しました。
「唐獅子図屏風」はなぜ国宝じゃない?
永徳が描いた「唐獅子図屏風」は、桃山文化を象徴する作品として歴史の教科書や資料にも必ず登場するほどに有名です。
こちらですね。
教科書や資料では、「唐獅子図屏風」の大きさを感じることはできませんが、実物は縦2.2m 横4.5mと非常に大きく迫力があります。
唐獅子の起源は、なんと古代オリエント文明まで遡ります。
エジプトではスフィンクス、シルクロードを横断して中国に伝わったのが唐獅子。
中国から朝鮮半島を経由し日本に伝わったのが狛犬、中国から沖縄に伝わったのがシーサーです。
中国で唐獅子は、縁起物そして権力や実力を表す力強いシンボルとしての意味を持っていました。
永徳が画いた唐獅子は、一歩前へと今にも絵の中から飛び出してきそうな躍動感があり、堂々とした気品も印象的です。
他に、永徳の遺した代表的な作品といえば、「洛中洛外図」、「聚光院障壁画」があります。
画像・「洛中洛外図、左」
画像・「洛中洛外図、右」
画像・「聚光院障壁画のうち花鳥図」
ですが、特に有名な「唐獅子図屏風」だけは国宝に指定されていません。なぜでしょうか。
その秘密は、所有者にありました。
唐獅子図屏風は、皇室の私有物となっていて、国宝や重要文化財の保護対象ではないことから、国宝に指定されていません。
ちょっと残念な気持ちもありますが、宮内庁がしっかり管理をしてくれると思えばすごく安心ですね。
まとめ
狩野永徳を5分で!「唐獅子図屏風」はなぜ国宝じゃない?でした。
狩野永徳をかんたんに語るポイントは、
・若くして狩野派のリーダーとなった
・先祖も子孫も優れた絵画師だった
・安土城や大阪城の障壁画を描いた
・最期は過労死だった
・代表作の一つ「唐獅子図屏風」は皇室所有で国宝にならなかった
最後まで読んでいただきありがとうございます^^