室町時代

5分で足利義政について!銀閣寺の意味や立てた理由、どんな人エピソード?

足利義政(あしかがよしまさ)といえば、室町幕府第8代将軍で、銀閣寺を建てたことでも有名です。

日本の美である、わびさびの東山文化を築きあげる一方で、11年も続いた「応仁の乱」の原因を作った人物でもありました。

今回、足利義政のかんたんな経歴銀閣寺の意味や立てた理由人物エピソードについて、紹介していきますよ。

 

足利義政、プロフィール

名前:足利 義政(あしかが よしまさ)
出身地:京(現・京都)
生誕:1436年1月20日
死没:1490年1月27日
享年:55歳 (不明)
時代:室町時代(戦国時代)

 

かんたんな経歴、何した人、どんな人?

利義政は、1436年に室町幕府の第6代将軍・足利義教(あしかがよしのり)の3男として生まれました。

将軍の子どもとして生まれましたが、義政には兄がいたので、次の将軍候補からは外され、母方の親戚である公家の烏丸資任(からすまるすけとう)の家で育てられました。

 

1441年に「嘉吉(かきつ)の乱」で、父が暗殺され兄の義勝が7代将軍になるも、すぐに病気で亡くなり、8代将軍候補として義政が選ばれます。

1443年、義政はわずか8歳でしたが管領(かんれい・幕府の役職でサブリーダー的)らのバックアップを受けて第8代将軍になりました。

義政は将軍ではあったものの、実際の政治は、管領たちがしていました。

 

室に日野富子(ひのとみこ)を迎えると、義政はますます政治から遠ざかっていきます。

妻の富子が政治に口を出し始め、そしてこれまで通りに管領たちサブリーダーが何も言わずとも政治を取り仕切ってくれていたからです。

実はこの妻。めっちゃ怖かったのだそうです。(・∀・)

 

んな日々の中で、自分になかなか跡継ぎの男子が生まれないので、義政の弟である義視(よしみ)を次期将軍候補として定めました。

が、翌年、妻の富子が男子である義尚(よしひさ)を生んだのです。

富子は義尚を生んだのに、次期将軍候補が弟・義視であることにクレームを言い始めました。

 

1467年、この世継ぎ争いが、サブリーダーたちを巻き込んで長きにわたる「応仁の乱」が始まりました。

弟・義視VS子・義尚と日野富子らの戦いです。

それぞれを応援する大名が各地から集まり京都を舞台に激しいバトルが始まりました。

最中に、次期将軍は子・義尚と決めるも、戦いは一向におわりません。

そして戦いを続けていく中で、勝ったり負けたり、裏切ったり裏切られたりと、両チームが入り乱れ決定的な勝負がつかないまま、両軍サブリーダーたちの死をもって応仁の乱は終わりました。

 

ったのは、焼け野原になった京都と幕府への不満だけです。

全国の有力大名を巻き込んだ戦となり、この争いが後の戦国時代へ繋がったという見方もあります。

 

なんとなく居場所を失った義政は、これぞ我が道!というべく水墨画や能そして茶の湯と自分なりの趣味の生活に生きがいを見つけ、引きこもり生活を目指します。

そして完全なる引きこもり生活を実現するために、京都の東山に移り住みながら、銀閣寺を作り始めました。

残念ながら銀閣寺の完成を待たずに55歳でこの世を去りました。

 




どんな人物エピソードがある?

政の生涯は、予定外の将軍就任、妻の政治関与、そして世継ぎ争いの応仁の乱、待っていたものは、ひっ迫した財政と幕府への政治不信でした。

そんな過酷な状況に義政は耐えられる訳もなく、引きこもり生活を決意します。

 

義政は、華やかさこそないものの、わびさびの生活に美を見つけ出し、武家・公家・禅宗の精神をミックスさせたシンプルな文化を生み出しました。

シンプルな文化は、庶民にも愛され受け入れられたことから、現代にも通じる華道や茶道のブームが起こりました。

 

武家に生まれながら公家の家で育ち、将軍となるもシビア過ぎる生活を送ったからこそに、シンプルで美しい義政ならではの東山文化を生み出せました。

まさに「いぶし銀」な人物と言えるのではないでしょうか。

 




銀閣寺の意味や立てた理由は?

ころで、京都の観光名所の中に金閣寺、そして銀閣寺があります。

これですね。

この銀閣寺を建てた意味や理由はなんなのでしょうか。

金閣寺を作ったのは、義政のおじいちゃんの室町幕府3代将軍・足利義満(あしかがよしみつ)です。

この足利義満の時代は、室町幕府の中でもっとも権力も財政も安定していた頃で、義政の憧れの人、憧れの時代でした。

そんな偉大な祖父・義満がのこした金閣寺は、金箔におおわれた華やかさ、艶やかさ、麗かさ、全てを見事に兼ね揃えた、煌びやかなものでした。

義政も義満を見習い銀閣寺を建てます。

 

銀閣寺と呼ばれますが、銀泊は使われずにシックな黒漆が塗られています。

当初より銀は使われず、使われる予定もなかったようです。

それなのにどうして、銀閣寺と呼ばれるようになったかというと、江戸時代以降に、金閣寺の金を真似して銀、すなわち銀閣寺と呼ばれるようになったのです。

元々は、本来の名前である慈照寺(じしょうじ)と呼ばれていたようです。

 

義政は、義満にあやかろう、そして自分の生きがいでもある文化を残そうと慈照寺(じしょうじ)を建てました。

自分は政治に関心がないとわかっているからこそ、自分の愛した文化を形で残そうと必死だったのかも知れません。

 

まとめ

5分で足利義政について!銀閣寺の意味や立てた理由、どんな人エピソード?でした。

足利義政をかんたんに語るポイントは、

・元々は将軍候補じゃないのに、将軍になっちゃった

・奥さんがメッチャ怖かった

・応仁の乱の原因を作り戦国時代のきっかけを作った

・銀閣寺を建てて東山文化を盛り上げた

・政治に関心がなかった

・元祖ヒッキーだった

・銀閣寺は銀色じゃなかった

 

最後まで読んでいただきありがとうございます^^

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りょーま(管理人)
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