「大一大万大吉」、これを組み立てた紋を見たことがある方は多いかと思います。
石田三成のスローガンですね。
この家紋はどういう意味なのか、また石田三成の子孫はまだ続いているのか。紹介していきますよ。
家紋の意味「大一大万大吉」って何?
「大一大万大吉」を組み合わせた石田三成の紋ですが、やたら印象的ですよね。
ゲーム等で三成の陣羽織などに描かれる「大一大万大吉」の文字、この意味は何なのでしょうか。
読み方はそのまんま「だいいち だいまん だいきち」ですね。
で、これ、よく家紋といわれますが、実は違います。家の紋ではないのです。
当時の人は家紋というものはあまり認識していなかったで、いくつかあるのが普通です。
信長も家紋を7つ使っていましたね。
三成の「大一大万大吉」は、家紋ではなく、三成の理想を掲げた言葉です。
その意味は、「皆はひとりのために、ひとりはみんなのために!」
このセリフ、聞いたことがないですか。意味はまさにそれなのです。
「大一大万大吉」も似たような思想があります。
ひとりが万民のためにつくし、万民がひとりのためにつくせば、全員が満足できるに違いないという意味です。
こちらの記事で、石田三成について、カンタンにわかり易く紹介しています。
>>>石田三成を5分で!茶々との肉体関係?性格悪くて加藤清正とは不仲?
子孫は続いてる?
石田三成の子孫は現在まで残っているのでしょうか。
関ヶ原では、最後まで逃げようと悪あがきをしていた石田三成。
彼の感覚では自分の命は、豊臣のために使うものと思っていました。
実は子孫は残っています。
三成の二男がかくまわれて、今もその血統を保っているのです。
家康は探して殺さなかったのでしょうか?
おそらくは無理だったかと思われます。
当時彼の力が及ぶのは、東国だけでした。まだ豊臣家は丸々残っています。
そして、西軍(豊臣)の残党は、西の方にうようよいました。
追いかけたらあっという間に囲まれて家康憎しということで、総攻撃にあいます。
一番恐ろしいのは、やっぱり島津さん、薩摩の島津義弘です。
西軍劣勢の中、陣中を突っ切って突破しようとしたその武勇、実は出てきていたのは弟の方で、九州には兄の軍が丸々残っています。
あと東軍も怖いですよ。
伊達政宗は天下を狙っていましたし、あまり信用が出来ない元秀吉家臣がどう出るか分かりません。
家康も馬鹿ではありません。
三成の二男をかくまってくれたのは彼を慕う津軽家だったといわれています。
ふつう、戦に負けると草の根分けても探してというのが武士の習いですが、三成は大名といっても、1代限りの秀吉がとりたてたから大きくなった家臣です。
小早川秀秋の裏切りによって亡くなった大谷吉継という友人や左近こと島清興は、戦場で死亡。
西軍についていた鍋島なども離反、そういう状態でひとり子供が生きていても当時の家康には痛くもかゆくもなかったのです。
関ヶ原では逃げてどこに行ったか分からない人も多いです。
西軍の明石全登というキリシタン大名は関ヶ原の後、行方不明になります。
大阪夏の陣、冬の陣でも行方不明になるというミステリアス武将ですね。
当時はインターネットも興信所もないので、探すのはムリでした。
まとめ
大一大万大吉の意味はつまり、「皆はひとりのために、ひとりはみんなのために!」でした。
この言葉の意味を江戸時代の人は何となく避けていました。
家康は半ばぶんどるような形で政権を豊臣からとりましたから。
でも、少なくとも平和にはなりました。
三成の死後、徳川政権のもとで、全国に政治の力が及ぶようになって、大名同士の戦も消滅したのです。
家康も、三成も考えたことは基本は同じです。国の政治がいかに安定するかです。
家康の政治は非常に合理的で、庶民のことも考えたものでした。三成も長浜、彦根ではよい領主でした。