豊臣秀次ってどんな人物?「殺生関白」でも無能でもなかった!

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豊臣秀次(とよとみひでつぐ)と言えば豊臣秀吉の後継者、つまり二代目関白として世に知られるが、その人物評価は正直かなり悪い。

政治や戦は「下手」、また、辻斬りを行ったとの噂も取り沙汰されるほど「殺生」を好む性格であったとされる。

そして、最期は謀反の疑いをかけられ切腹と、何から何までダメダメな感がある人物として紹介されることも多い。

ところが、きちんと調べていくと全く違った秀次像が浮かび上がってくるのである。

真実の秀次像とはどのようなものなのだろうか?

 

人質・養子人生から二代目関白へ

肖像・豊臣秀次

 

臣秀次は1568年秀吉の甥として尾張国知多郡大高村で生まれ、治兵衛(じへえ)と名付けられた。

1572年浅井氏の居城小谷城攻めに際して、宮部継潤(みやべ けいじゅん)を調略するため、養子として送られたのが治兵衛であった。

治兵衛は宮部吉継と名乗ることとなった。

その後、宮部継潤は秀吉の与力となったため秀吉の元に戻ることとなる。

養子とは言え実質上は人質であったから、治兵衛は内心肝を冷やしたに違いない。

 

さて養子人生はこれで終わらない。毛利攻めのため三好康長と結ぶ必要のあった秀吉は、再び治兵衛を養子に出す。

養子となった時期には諸説あるが、ともかく治兵衛は三好氏の下で三好信吉と名乗ることとなる。

これで落ち着いたと思いきや、本能寺の変後には何と養父の康長が出奔し、実子の康俊も消息不明となってしまう。

信吉は図らずも、河内北山三好氏2万石の大名に上り詰めてしまうのである。

1583年頃の話とされるが、信吉は運命の悪戯に苦笑したに違いない。

 

の後、秀吉が天下人の地位を確立すると羽柴姓に復帰し、羽柴信吉となる。

秀吉は子宝に恵まれなかったため、Jr世代では最年長であった信吉に白羽の矢が立ち始めるのは時間の問題であった。

この後、信吉が地道に功績を積み重ねて、官位もそれに合わせて順調に上がっていったという点はあまり知られていないようである。

 

1585年秀吉の関白就任の前後には羽柴秀次と改名。

特に、秀吉の片腕であった弟秀長に続いて嫡男鶴松が死去すると、秀次は数少ない後継者候補の一人として見なされるようになる。

1591年12月秀次は関白に就任。豊臣姓を賜り、ここに二代目関白豊臣秀次が誕生する。

 

戦下手だった?

次はよく、戦下手の残念な武将と評されることが多い。

しかし、よくよく調べてみると、戦で失態を演じたのは小牧長久手の戦い(こまき・ながくてのたたかい)くらいのもので、他の戦では意外に武功を上げていることがわかる。

 

以下に戦歴を列記してみる。

・1583年1月滝川一益が挙兵。二万の軍勢を率いる大将として出陣し、伊勢国の滝川儀太夫(益重)の籠る峯城を攻略

・1584年の小牧長久手の戦いでは、三河攻めの総大将となるが、榊原康政・大須賀康高ら奇襲の奇襲を受け大敗。

・1585年紀伊雑賀征伐に出陣し、千石堀城攻めでは一揆勢を殲滅し落城させる

・1585年四国征伐において副将として3万の軍勢を率いて岩倉城を落城させる

 

確かに失態は小牧長久手における大敗のみである。

これを見ると、武功のほとんどない江戸幕府二代将軍徳川秀忠よりよっぽどましのような気がしてくる。

 

教養人としては一流

次は百姓の出ということで、無教養だったとみなされる傾向があるように思う。

ところが、事実はそうではない。

 

秀次の学問好きは有名で、古典を精力的に収集し、『日本記』『三代実録』等の書籍を朝廷に献上したという。

また、茶道や連歌を嗜む教養人でもあった。

秀次は茶人にして歌人であった、養父の三好康長に手ほどきを受けたものと思われる。

 

後に秀次は千利休の弟子になったとされ、秀吉からも台子点前の秘伝を受けている。

『言経卿記』からは、山科言経(やましな ときつね)ら公家とも親密な関係であったことも確認できる。

つまり、秀次は武家関白としての品格を十分に備えていたということになる。

「殺生関白」というありがたくない評判も、もとは『太閤さま軍記のうち』に正親町上皇崩御の喪中に狩りをしたことがけしからんという評判が出所であると記されている。

 

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切腹事件の謎

1595年6月に起こった秀次切腹事件の始まりは唐突であった。

太田牛一『太閤さま軍記のうち』によると、「鷹狩りと号して、山の谷、峰・繁りの中にて、よりより御謀反談合とあい聞こえ候」とある。

要は鷹狩と称して、秀次ら数人が謀反の計画を立てていたという噂が持ち上がったというのである。

 

しかし妙なのは、秀次の謀反を証明する一次史料が1つも見つかっていないということである。

太田牛一は何をもって「謀反」と記したのであろうか。

興味深いのは『言経卿記』に謀反は讒言だとあり、『大外記中原師生母記』には秀次が自分から高野山に出奔したという記述がある。

さらに、『言経卿記』には秀次が伏見の秀吉のところに行った後に、不仲になったとの記述が見られる。

時系列を確認すると、不仲になった後に高野山に入っていることがわかる。

 

秀吉への謀反の嫌疑を詰問された秀次が高野山へ追放され、切腹を命じられたという定説とは異なる状況である。

命じられたのではなく、身の潔白を証明するために切腹したという説もある。

潔白の証明であったかはともかく、尊敬する秀吉の期待に応えようと必死で努力を重ね、やっと認められて秀吉の後継者となったというのに謀反を疑われ、秀次はひどくショックを受けたことは間違いないだろう。

 

まとめ

今回、秀次の記事を書いていて、「歴史は権力者によって書き換えられる」という言葉を何度反芻したことだろう。

豊臣秀次は「殺生関白」でも無能でもなく、謀反を企ててなどいなかったということが明るみになりつつある。

『太閤さま軍記のうち』は、『信長公記』を書いた太田牛一が記したものである。

この第一級の史料とされる『信長公記』も、本能寺の変前後の記述は秀吉の命によって、改ざんされているという説があるのである。

この説を信じるならば、『太閤さま軍記のうち』に記されている秀次の悪行及び謀反の記述の信憑性はかなり疑わしい。

秀吉は何らかの理由で、謀反の企てがあったため切腹させたという筋書きが必要だったのではないだろうか。

 

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