北条時政(ほうじょう ときまさ)といえば、「尼将軍」の名で知られる北条政子のお父さんであり、鎌倉幕府では、将軍のサポート役である初代執権となりました。
マイナーな存在ですが、武家政権を確立させた重要なキーマンとも言えます。
今回、北条時政のかんたんな経歴、どんな政治をした?について、家紋の意味は?について、紹介していきますよ。
北条時政、プロフィール
名前:北条 時政(ほうじょう ときまさ)
出身地:伊豆国(現・静岡県伊豆の国市)
生誕:1138年
死没:1215年2月6日
享年:78歳(死因・腫物)
時代:平安時代末期-鎌倉時代初期
かんたんな経歴、何した人、どんな人?
北条時政は、1138年に伊豆国(いずのくに)の豪族の家に生まれました。
豪族とは地域を治めている地方行政のリーダー的存在で、現代でいうならば、知事や市長といった感じです。
北条家は桓武平氏の子孫、そして2番目の奥さん牧の方(まきのかた)の父は、平清盛(たいらのきよもり)の家来でした。
そんな理由もあり時政は、1160年に起こった「平治の乱」で平清盛に敗れ流刑となった源頼朝(みなもとのよりとも)の見張り役を任されます。
源頼朝は、後に勝ち組として鎌倉幕府を開く源氏の武士です。
時政と出会った時は負け組の源氏でした。
こういった状況下で、時政の娘北条政子(ほうじょうまさこ)は頼朝と恋に落ち、なんとデキ婚してしまうのでした。
当初の時政は、この結婚に猛反対!でした。
平氏の子孫でありながら、なぜ娘を源氏に・・・。
しかも当時は流人の頼朝に嫁がせなければならないのかと、思い悩む一方で、すでに頼朝の才覚に気が付いていたのかもしれません。
それを後押しするかのように、平清盛の悪政の噂をもあり二人の結婚を認めました。
頼朝は、そんな時政の期待を裏切らず、打倒平氏を掲げ見事に平氏を滅亡させます。
平氏滅亡後の時政は、源氏の武士として京都での治安維持に尽力しました。
時政は平家の子孫として、京都でも顔の効く人物だったこともあり、京都の人々も時政には素直に従ったようです。
平家滅亡後の乱れた京都を統治するには適役でした。
頼朝の幕府成立に大きく貢献した一人が時政だったのです。
鎌倉政権下では、初代執権(政治の実権を握る人)として君臨するも、最後は娘の政子と息子の北条義時(ほうじょうよしとき)に伊豆に幽閉され78歳で生涯を閉じました。(幽閉された理由は次で。)
執権になったが、どんな政治をおこなった?
北条時政は、鎌倉幕府の初代執権になります。
執権とは、将軍のサポート役でもありエリートポジションで、現代で言うところの、内閣官房長官がぴったりかと思います。
と、いうとすごく恰好良いのですが、実は奥さんの牧の方の影響を受けたのか、その見苦しい政治はあの平清盛と変わらなかったと言われています。
牧の方は、権力欲しさに娘婿である平賀 朝雅(ひらが ともまさ)を将軍にして欲しいと時政に頼み、二人でその計画を実行したのでした。
その為、頼朝の後を継いだ孫の2代将軍の源頼家(みなもとのよりいえ)と、同じく孫の3代将軍の源実朝(みなもとのさねとも)から、将軍職を奪おうとしたのです。
ここで娘の政子と息子の義時から、不当な権力を阻止され、愛する牧の方と一緒に伊豆に幽閉されるという結末を迎えるのでした。
家紋「三つ鱗」の意味は?
北条氏の家紋と言えば、「三つ鱗」で知られています。
三つの三角形がバランス良く取れた美しいシンプルな家紋です。
これですね。
完全に「ゼルダの伝説」のトライフォースっぽいですが、とくに関連はありません。(・∀・)
この家紋には、どんな意味があるのでしょうか。
時政が江ノ島(神奈川藤沢市)にある弁財天に、子孫繁栄を願い参拝した時に遡ります。
その際、現れた美しい女性が大蛇に変身し、「子孫は国王となります」と告げ、三枚の鱗を残して去ったことが、家紋の由来になっているという神秘的なエピソードが残っています。
実際、子孫は日本の国王とはなってはいませんが。
ちなみに「後北条氏(ごほうじょうし)」もこの三つ鱗を家紋にしています。
まとめ
鎌倉幕府初代執権でありながら、あまり語られることのないマイナーな北条時政は、牧の方に影響された晩年の行動が、あまりにも良くなかったのかも知れません。
しかし平家の子孫でありながら、源氏の頼朝と一緒に平家滅亡への道を歩み、武家政権の確立を果たした時政は鎌倉幕府成立の重要なキーマンとも言える存在でした。
ということで、
北条時政を5分で!どんな政治をした?家紋の意味は?でした。
最後まで読んでいただきありがとうございます^^