平安時代

藤原秀衡を5分で!なぜミイラにした?源義経、平清盛との関係は?

藤原秀衡(ふじわらのひでひら)といえば、奥州を制しトップに君臨した奥州藤原氏の三代目です。

平泉(岩手県)を拠点とし、独自の文化で栄華な世を築き上げていました。

今回、藤原秀衡のかんたんな経歴なぜミイラになったか源義経、平清盛との関係についてご紹介します。

 

藤原秀衡、プロフィール

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名前:藤原 秀衡(ふじわら の ひでひら)
出身地:奥州(現・東北)
生誕:1122年
死没:1187年11月30日
享年:66歳(死因・脊椎カリエス)
時代:平安時代末期

 

かんたんな経歴、何した人、どんな人?

原秀衡は、1122年に奥州藤原氏二代目の父藤原基衡(もとひら)と母は安倍宗任(むねとう)の娘のあいだに生まれました。

秀衡の時代は、奥州藤原家の全盛期とも言われ、もっとも優美に輝いていました。

 

廷から鎮守府将軍(ちんじゅふしょうぐん)を命ぜられ、現在の東北一帯を支配する権力を持ち、アジア諸国との貿易により安定した財政を誇っていました。

祖父の藤原清衡(ふじわらのきよひら)の時代から、仏教による新しい国造りを目指していたこともあり、寺院の建設に対してとても積極的でした。

秀衡も、京都の平等院鳳凰堂をイメージした無量光院(むりょうこういん)を建てます。

調査によれば、平等院よりも大きな建物であったことから、その先に見据えた世は、京都を超える大都市を想定していたのかも知れません。

 

「源平の戦い」が起こっても、どちらともなく中立の立場を保ち、冷静に世の動乱を遠く奥州から見守っていたのでした。

晩年は、後継者争いが起こらぬように後継者を決めるも、最期の遺言には「義経を大将軍にせよ」残しており、奥州藤原家の繁栄と義経の今後の活躍を大いに期待していたのかも知れません。しかし、義経は若くして襲われて追い詰められ、自害しています。

藤原秀衡は、脊髄に炎症が起こる「脊椎カリエス」により66歳で亡くなりました。

 




なぜミイラにした?

んと藤原秀衡はミイラになっていました。

画像はこちら。「閲覧注意」です。

[閲覧注意]画像・藤原秀衡のミイラ

 

イラと言えば、誰もがすぐに古代エジプトをイメージするかと思います。

現代の調査において、秀衡は人工ミイラ化か自然ミイラ化か、詳しい事は不明とされており、未だに多くの謎が残っています。

 

また仏教に即身仏という瞑想しながら絶命することでミイラとなり、人々を救う教えが存在します。

朝廷内の争いや武家同士の争いが絶えない動乱の世を冷静にみつめ、奥州を統治していた秀衡は、今後も藤原家の繁栄を願いミイラとなり見守ることを決めていたのかも知れません。

 




源義経との関係は?

原秀衡と源義経との関係について。

源義経は、牛若丸と名乗る幼少期と、兄・源頼朝と対立したときの2度にわたり、秀衡の元に訪れています。

 

「平治の乱」で、父・源義朝が平清盛に殺されると、義経はお坊さんとなるために寺に預けられたのでした。

しかし父の無念を晴らそうと誓い、武士として生きるために、寺を出て秀衡を訪ねます。

我が子のように愛情を注ぎ成長を見守りますが、兄である頼朝が打倒平氏を掲げ兵をあげると、一緒に戦う為に秀衡の元を去ります。

 

その後、平氏滅亡へと大活躍し朝廷から位を貰うなど武士として功績が認められると、今度は兄の頼朝と対立し命を狙われるのでした。

その時にまた義経は秀衡を頼ります。義経は父の姿を知らずに育ったために、秀衡を実の父のように慕っていたようです。

 




平清盛との関係は?

清盛との関係について。

平清盛は、各地で平氏に対する打倒平氏の不満の声が聞こえると、源氏の力を恐れ、平氏滅亡を避けるために、藤原秀衡に頼朝を倒すように願い出ています。

しかし、平氏源氏の敵味方にはならずに、中立を保っていました。

東北で独自の文化を築き上げていた秀衡率いる奥州藤原氏の軍事力や財政力は、思うままに政治を取り仕切った平清盛でさえも、魅力的で頼りにするほどの絶大な力を誇る存在だっと言えます。

 

まとめ

ということで、
藤原秀衡を5分で!なぜミイラにした?源義経、平清盛との関係は?でした。

 

藤原秀衡をかんたんに語るポイントは、

・奥州藤原氏の最盛期を築いた

・なぜミイラになったかは未だ謎のままだった

・逃げ延びてきた源義経を2度も手厚く保護した

・清盛に厚い信頼を寄せられ頼朝を倒すように命じられた

・平氏源氏の敵味方にならずに中立を保った

 

最後まで読んでいただきありがとうございます^^

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POSTED COMMENT

  1. 山田久夫 より:

    奥州征伐の軍事奉行工藤(二階堂)行政は藤原秀衡の所帯跡と地頭職を与えられました。文治二年の頼朝奏上によれば源義経を匿った凶徒(藤原秀衡)の所帯跡に地頭を置くことが記されています。陸奥国信夫庄鳥和田村初代の地頭は工藤行政であることから、工藤行政の屋敷が藤原秀衡の所帯跡と考えられます。

  2. 加茂真明 より:

    平泉と藤原三代は全く関係ないと思います。江戸時代に作られた話で事実と全く異なるのではないでしょうか。藤原基衡は陸奥国衙の在庁官人の目(さかん)であったと十訓抄、古事談から読み取れます。平安時代末期の陸奥国の境は伊達の大木戸。刈田郡以北は逆賊の支配地に帰していました。平泉藤原説は吾妻鑑文治五年の条、平泉実記等江戸時代に創作された話だと思います。
    藤原秀衡は朝廷から鎮守将軍、陸奥守に任じられています。陸奥国域の外の逆賊支配地で王権を有する様な人物ではありません。吾妻鑑は源頼朝軍が平泉に着いた時、藤原三代の屋敷跡は焼かれて土ばかりが残っていたと記しています。掘っ立て柱の建物であったなら柱の地中部は燃えず、境界部は炭化して痕跡が残る筈でしょう。それらが発掘されず折敷と呼ばれる木工品の破片が焼けず腐らず出土したそうです。伊達氏が信夫郡にいた頃は伊達氏の先祖は藤原山陰であり藤原秀衡と同族であると主張していました。信夫郡へ戻れなかった伊達藩は古代陸奥国府を多賀城とし、藤原秀衡の館を平泉と主張したのです。共に、全く根拠不明な話です。続日本紀を読む限り本当の多賀城は賀美郡にあった多賀柵とほぼ同じ場所に作られた城郭です。城と言っても戦国時代のものと性格が異なります。近隣諸郡の農民が農閑期に外寇から身を守るため居る所です。
    平泉三代、多賀国府説は江戸時代に創作された事実と異なるお話です。

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