鑑真(がんじん)といえば、律宗の開祖ですね。歴史の教科書によく登場する僧ですが、日本人ではありません。
鑑真は、危険を冒してまで伝戒師として、日本の仏教の戒律を作るために日本に渡ったのです。
今回、鑑真のかんたんな経歴、失明した原因や理由について、紹介していきますよ。
鑑真、プロフィール
鑑真(がんじん)
出生地 唐(中国)
生誕 688年
死没 763年6月25日
享年 76歳
時代 奈良時代
かんたんな経歴、何した人?どんな人?
鑑真は唐(とう・中国)で生まれ、20歳で長安に入ると、律宗や天台宗を学びました。
鑑真は、僧侶が守るべき戒律を伝え研究し、僧侶に授戒を行っていました。
そこへ、日本からやってきた僧から「日本に戒律を伝えてほしい」と言われ、日本に渡る決意をします。
この時の日本は、授戒をせずに「今日から私僧侶になろう」と決めて勝手に僧侶になってしまう人(私度僧)が多かったからです。
僧侶は重い税を免除されたので、みんな僧侶になりたがりますしね。
鑑真は弟子21人を引き連れ日本に渡ろうとしますが5回も失敗しました。
弟子の密告により失敗したり、暴風によって失敗したり、日本から来た遣唐使に乗船を拒否されたりしました。
当時は暴風や味方の裏切りなどで失敗ばかり。渡海することは命がけだったのです。
5回目の失敗の時には、日本に来てほしいと頼んだ日本の僧が亡くなり、鑑真自身は両目を失明してしまいました。
5回も失敗したのに日本に戒律を伝えたいという気持ちで何回もチャレンジする精神は凄まじいですね。
やっとのことで日本に到着した鑑真は、孝謙天皇(こうけん天皇)に、戒壇の設立と授戒についてのことを全面的に一任され、東大寺に住むことになりました。
400名に戒律を授けると、戒壇院を建立し、戒律制度を整備していきました。
戒律の他にも、彫刻や薬草に詳しく、日本にとても影響を与え、重い税や貧困に苦しんでいた民衆を救済することにも積極的に取り組みました。
その後、76歳で亡くなりました。
失明した?理由や原因は?
鑑真は失明しています。失明した理由や原因はなんなのでしょうか。
鑑真は日本に渡るために何回もチャレンジして失敗していました。
5回目の失敗で海南島から揚州に帰るときに南方の気候や激しい疲労により失明してしまったと言われています。
疲れだけで失明してしまうのは考えられないとして、早稲田大学の教授だった、故・安藤更生氏によると、白内障の手術の後遺症ではないかという説もあるそうです。
その他にも渡航しているときに船が難破し、船の破片が目に入って失明したという説や、視力が弱くなっていたが実は失明していなかったという説もあります。
失明していてもそうでなくてもそこまでして日本に戒律を伝えに来てくれた鑑真は素晴らしい人物ですね。
まとめ
自分の住んでいる国ではないのに「戒律を伝える」ためだけに何回も不屈の精神で日本に渡航してくれた鑑真。
彼が戒律を日本に伝えてくれたおかげで日本の仏教文化はより根付いたのかもしれません。
鑑真が亡くなった後、弟子たちが鑑真の彫像を作りました。これは日本最古の肖像彫刻とされ、この彫像を作る知識を日本に伝えたのも鑑真だと思うと心が熱くなりますね。
ということで、
5分で鑑真がしたことについて!失明の原因や功績は?でした。
最後まで読んでいただきありがとうございます^^