鎌倉時代

楠木正成を5分で!人気の理由は?伝説の「桜井の別れ」って?

楠木正成(くすのき まさしげ)といえば、後醍醐天皇に最期まで忠義を尽くした正義の武将です。

個性的な戦法をたくさん持ち、「赤坂城の戦い」では、鎌倉幕府を徹底的に困らせました。

今回、楠木正成のかんたんな経歴人気の理由について伝説の「桜井の別れ」って?について、紹介していきますよ。

 

楠木正成、プロフィール

名前:楠木正成(くすのき まさしげ)
出身地:河内国(現・大阪)
生誕:1294年
死没:1336年7月4日
享年:43歳(自害)
時代:鎌倉時代

 

かんたんな経歴、何した人、どんな人?

木正成は、1294年に現在の大阪である河内国に生まれました。

代々地元の特産品を売り、権力と財力を持っていた地方豪族でリッチな武士の家に生まれます。

幼い頃にお寺で仏教を学んだ経験を持ち、知識の面でも大変優れておりました。

 

成が過ごした鎌倉時代は、鎌倉の地を拠点に政治が行われていました。

鎌倉は関東で、正成が居たのは大阪の関西です。

大阪は、幕府の目が届き難かった事と、元々天皇や貴族の支配していた土地が多く、なかなか幕府の力が及ばない土地柄だったのです。

 

当時、正成のような存在を世は悪党と呼びました。

悪党とは、悪い事をしたり悪い人たちの集まりを呼ぶのではなく、幕府の持っている支配力でコントロールできない者たちをいいます。

 

寇(げんこう・モンゴル帝国の日本侵攻)以降、幕府は世の中からの不満や不信の声が高まり、危機的な状況が続き、力を失っていました。

そんな中で、武士に政治を任せておけないと思い、行動したのが後醍醐天皇です。

 

1324年に倒幕を決意しますが、すぐ幕府にバレて失敗に終わりました。「正中の変」といわれます。

失敗に終るも、倒幕への思いが消えることはありませんでした。

7年後の1331年、ふたたび倒幕に向けて「元弘の乱」が起こります。

前回の倒幕失敗から7年、その間に全国各地に声をかけ、幕府に不満を持つ貴族や武士、そして悪党を集め倒幕の準備をしていたのです。

正成も、後醍醐天皇の意思に熱く想いを寄せ、一緒に倒幕を目指し戦います。

が、しかし計画はまた幕府にバレたのです。

倒幕がバレた後醍醐天皇は、笠置山(かさぎやま)に身を隠します。

正成は赤坂城(あかさかじょう)に立てこもり、奇襲や待ち伏せの他、熱湯をかけたり個性的な戦法で熱戦を繰り広げ、幕府軍を苦しめたのです。

 

後醍醐天皇はその後、島流しとなり隠岐の島に流されました。

正成は後醍醐天皇が島流しになっている間も、倒幕に向けて戦を続けます。

そんな正成に影響された足利尊氏(あしかがたかうじ)新田義貞(にったよしさだ)、そして赤松則村(あかまつのりむら)らが次々と幕府へ兵を向け、ついに鎌倉幕府は滅亡しました。

 

倉幕府の滅亡により、ようやく表舞台へもどった後醍醐天皇は、1334年に「建武の新政(けんむのしんせい)」を行います。

しかしこれは天皇を中心とした、天皇や貴族そして寺院が権力と財力を持つ仕組みで、倒幕へ導いた正成たち武士には何のメリットもない政治だったのす。

これまで一緒に戦った正成たち武士に、後醍醐天皇は目もくれませんでした。

この状況に、これまで倒幕を目指し一緒に戦った武士たちは納得するわけがありません。

一番に不満の声を挙げたのが足利尊氏です。

尊氏の気持ちにも理解が出来る正成は、後醍醐天皇に武士の待遇が上がるようにと、願い出ますが、聞き入れてもらう事は出来ずに尊氏とライバルになり戦うことになりました。

正成は、武士としての気持ちを抑え、後醍醐天皇への忠義心を貫いたのです。

 

1336年尊氏率いる20万の兵と正成率いる800人の兵とで湊川(みなとがわ)の戦いを迎えます。

ケタ違いの軍勢に勝ち目はないと最初からわかっていながらも、最期まで後醍醐天皇に背くことなく堂々と戦い、自害に追い込まれました。

 




なぜ人気?理由は?

木正成といえば、たいへん人気がある人物です。

なぜ人気なのでしょうか。

 

判官贔屓(ほうがんびいき)という言葉を知っていますか?

これは、源義経を語る上でよく使われる言葉です。

源義経は、鎌倉幕府初代将軍・源頼朝の弟で、幼名「牛若丸」でも有名ですね。

日本人独特の文化とでも言うべく「弱きを助け強きを挫く」と言った感情です。

この精神が、正成の人気の理由なのです。

精一杯力の限り後醍醐天皇に忠義を尽くすも、結果は命を落とすことになった正成に、後世のたくさんの人々が同情を寄せたのです。

 




「桜井の別れ」ってなに?

成の人気の理由の一つにこの「桜井の別れ」があります。

古典文学『太平記』の名場面のひとつで、戦前の学校の教科書には必ず載っていたものでした。

 

勝ち目のない戦いとわかっていた足利尊氏との「湊川の戦い」の前に、長男と正行(まさつら)と今生の別れとなってしまったエピソードです。

父・正成と子・正行が訣別した場所が、西国街道の桜井(現・大阪府三島郡島本町桜井)であり、地名にちなみ、「桜井の別れ」と言われています。

 

歌にもなっていて、とても有名なのです。

 

らすじを超かんたんに紹介します。

圧倒的な数の敵軍にたいして、自軍は20分の1ほどの戦力でした。

ヤバイと思った正成は、後醍醐天皇にあれこれ提案するものの、受け入れてくれませんでした。

そして、討ち死する覚悟をもって、尊氏との戦いに向かう正成。

それを見て、子の正行は「自分も一緒に行く」と言い張ります。

しかし、正成はそれを聞くことはなく、「自分が居なくなった世でも、後醍醐天皇に背く者が居たら倒しなさい。」と残し、菊水の紋が入った短刀を、形見として託します。

そして正成は、勇敢に湊川の戦いに向かっていきました。

というものです。

 

この「桜井の別れ」を現代の人たちには馴染みがないかもしれません。

しかし、戦前の大人たちは、涙ながらにその情景を子供達に熱く語っていたのだそうですよ。

 

まとめ

楠木正成を5分で!人気の理由は?伝説の「桜井の別れ」って?でした。

楠木正成をかんたんに語るポイントは、

・後醍醐天皇に尽くした。忠義心が凄すぎた。

・鎌倉幕府滅亡に貢献した。

・勝ち目のない戦でも、逃げずに戦い抜いた。

・「桜井の別れ」は、とても有名なエピソードで、悲しい話だった。

 

最後まで読んでいただきありがとうございます^^

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りょーま(管理人)
れきし上の人物.comの運営者。「かんたんにわかり易く」をモットーに、歴史が苦手な人向けに、記事を作成しています。難しい話は省いて、通説を元に書いていることをご理解の上、気軽に読んでください。m(__)m
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POSTED COMMENT

  1. 小豆 より:

    皆さん悲しい話を書いている中なのですが、
    社会の歴史の人物調べに役立ちました!
    ありがとうございます。m(_ _)m

  2. hide より:

    神戸に住んでます。
    湊川神社で待ち合わせる時「楠公さんで待ち合わせな!!」とよく言ってましたが、こういうストーリーがあったのですね・・

  3. 内田 貞夫 より:

    その昔、私の住んでいる家(佐賀市)のすぐ前に楠公子を祀った法華山永明寺というお寺(現在は住宅地になっている)がありました。そのお寺は日本で最初(1633年)に楠公父子を祭神としたお寺で、忠孝の志深い佐賀藩士深江信渓が当時の社会全般が浮薄になって、敬神崇祖の精神が衰えているのを嘆き、藩主、鍋島光茂に直訴して建てられた由緒あるお寺だったそうです。私も柴崎さん同様、子どもの頃、母親が楠公の歌を口ずさんでいたことを今でも鮮明に覚えています。息子の私同様に教養も何もない母親でしたが、我が子を思う母親の心情がこの歌に込められていたような、この歳(75歳)になって….そんな気がしています。

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  5. 柴崎一作 より:

    子供の頃、金木犀の下でなにかを口ずさんでた母親が、「ここに来なさい、歌を教えてやるから」と言って歌ってくれたのが、楠木公の歌でした。以来…何も知らずに歌ってました。これを口ずさむと母親を想い出し、涙腺が緩みます。これは母親を想い出す歌です。忠義であった楠木正行公…そして、優しかった母親…何か複雑な気持ちですね。然し…今の日本人が忘れてる心がここには確かにあります!

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