〜源氏なのに平清盛の片腕に!源頼政とは何者か?〜
全盛期には「平氏にあらずんば人にあらず」と言われた平氏政権にあって、源氏でありながら昇殿を許され、公卿にまで上り詰めた人物がいたことをご存じだろうか。
その人物の名は源頼政(みなもとのよりまさ)。
平氏政権において清盛の信頼の厚い人物であったという。
文武両道だった頼政
『平家物語』に、源頼政が鵺(ぬえ)という怪物を退治したという話が出てくる。
鵺とは頭が猿で、胴が狸、手足が虎、そして尾は蛇という化け物である。
近衛天皇が毎晩何かに怯えるようになった原因が、何かの化け物のせいではないかと考えた宮中の者が、武勇に優れた頼政に白羽の矢を立てたという。
なぜ平氏ではなく源氏の武士なのかというと、ある故事に由来するらしい。
その昔、天皇の病気回復祈願のため、当時源氏長者であった源義家が御所にて名乗りを上げ、弓の元を3度鳴らすと病魔が退散したという。
これに倣うと、源氏武者でなければならなかったのである。
さて、ある日の深夜、御所の庭を警護していた頼政は現れた鵺を弓で仕留めたという。
現存する平安時代の太刀「獅子王」は、鵺退治を果たした褒美として頼政に与えられたという伝承も存在する。
鵺退治の話は明らかにフィクションであろう。
しかしながら、この当時源氏長者が頼政で、極めて武勇に優れていると評価されていたことは間違いないと思われる。
また頼政は優れた歌人としても有名であったから、文武両道の武士であったようである。
河内源氏没落
事の始まりは鳥羽法皇と崇徳上皇の対立にあった。
自分の子を天皇に即位させたい崇徳に対して、法皇はこれを無視し、上皇の弟である後白河天皇を即位させてしまう。
このことによって鳥羽法皇と崇徳上皇の対立は激化する。
さらに、この当時摂関家でも関白 藤原忠道(ただみち)と左大臣 藤原頼長(よりなが)の対立が激化していた。
忠道は後白河天皇に、頼長が崇徳上皇に接近したために朝廷は二分されてしまう。
両派とも武士を率いたため、権力闘争が武力衝突に発展するのは時間の問題であった。
1156年、後白河天皇側についた平清盛・源義朝・源頼政らと崇徳上皇側が激突。
後白河天皇側の夜襲によって崇徳上皇は惨敗を喫する。
これが世にいう保元の乱である。
これらの功により、1158年(保元3年)頼政は院の昇殿を許されることとなる。
この後、後白河天皇は二条天皇に譲位して上皇となり、院政を開始。
その腹心として藤原信西(しんぜい)が台頭すると、平清盛が重用されるようになったという。
これを不満に思った源義朝は、信西と敵対する藤原信頼(のぶより)に接近する。
1159年義朝はクーデターを起こし、後白河上皇と二条天皇を幽閉し、信西殺害にも成功したのである。
このクーデターが起こったとき、清盛は熊野参詣(くまのさんけい)中だったという。
さすがの清盛もこれには慌てたらしい。
しかし清盛は一計を案じて、上手いこと上皇・天皇を救出したことにより、形成は逆転する。
義朝追討の宣旨を手に入れた清盛は源頼政の合力もあり、信頼・義朝を敗走させたのである。
結果として信頼は斬首、義朝は味方の寝返りによって討たれ、またもや清盛・頼政方が勝利する。
これ以降、義朝の河内源氏は没落することとなる。
これが平治の乱である。
破格の従三位
保元・平治の乱によって清盛の権勢はますます高まり、協力者であった頼政もその地位を高めた。
頼政は平氏政権樹立後も、政権維持に貢献し源氏長者の立場にあった。
その功績により、1167年従四位下に昇進する。
頼政は禁裏を守護する番役である大内守護に任じられたという。
1171年(承安元年)には正四位下に昇進。
源氏としては破格の官位を得た頼政であるが、晩年になると従三位への昇叙が遅れていることが不満だったらしい。
というのも、従三位からが「公卿」と見なされるからである。
摂津源氏の出で、朝廷や摂関家とも関係の深い京武士であった頼政は公家との交流も多かったため、従三位くらいは…と思っても不思議はないのかもしれない。
歌人としてもすぐれていた頼政が、
「のぼるべきたよりなき身は木の下に 椎(四位)をひろひて世をわたるかな」
という歌を詠んだのを聞きつけると、頼政の官位のことを忘れていた清盛は、1178年(治承2年)頼政を従三位に昇進させたという。
源氏が公卿となるのは前代未聞であり、九条兼実が「第一之珍事也」と日記に記しているほどである。
晩年の挙兵
平清盛は1167年(仁安2年)に太政大臣となり、1171年(承安元年)に娘の徳子を高倉天皇に嫁がせ、ここに平氏政権は全盛期を迎える。
しかし、次第に平氏の専横・横暴が目立つようになる。
そのさなかの1180年に、後白河法皇の第三皇子である以仁王が平氏追討の令旨を出し、全国の源氏・大寺社に挙兵を呼びかける謀反が露見する。
なんと、この謀反の計画には頼政も関わっていたのであるが、以仁王討伐の直前までその関与が露見しなかったというのである。
頼政が挙兵に至った理由には諸説ある。
『平家物語』では、嫡男仲綱の愛馬を巡って平宗盛とトラブルがあったことが原因とされている。
また、以仁王が匿われている寺を攻撃する命令に、当時出家していた頼政が難色を示したために、謀反を疑われることを危惧して以仁王側についたとする説もある。
私は、源行家(ゆきいえ)を伝達の使者として全国の源氏に決起を促していたことからすると、頼政は純粋に平氏の横暴を正すために源氏の勢力を結集しようとしていたのではないかと考えている。
奮闘及ばず、頼政は1180年(治承4年)5月26日宇治川の戦いに敗れ自害する。享年77歳であったという。
まとめ
以仁王が平氏追討の令旨を発してから4か月後の1180年(治承4年)8月源頼朝がついに挙兵する。
その後甲斐源氏、木曾義仲など全国各地の源氏が続々と挙兵したのである。
以仁王の挙兵が露見さえしなければ、全ては頼政の読み通りだったということになる。
いや、頼政の孤軍奮闘に源氏が奮起したのかもしれない。
(筆者・pinon)