市川房枝(いちかわふさえ)といえば、女性政治家ですね。
婦人運動のリーダーとして、女性政治家のパイオニアとして活躍したすごい人です。
今回、市川房枝のかんたんな経歴、人物エピソードややったことについて紹介していきますよ。
市川房枝、プロフィール
名前:市川房枝(いちかわふさえ)
出身地:愛知県中島郡明地村(現:一宮市)
生誕:1893年5月15日
死没:1981年2月11日
享年:87歳(心筋梗塞)
時代:明治時代-大正時代-昭和時代
かんたんな経歴、何した人?どんな人?
市川房枝(いちかわふさえ)は、農業を営む父・藤久郎と、母・たつの3女として、現在の愛知県一宮市である中島郡明地村に生まれました。
父・藤久郎は、これまでに勉強をしていなかったせいで、農家をしているという大きなコンプレックスを抱いて日々の生活を過ごしていました。
そのために子どもたちに対してはとても教育熱心で、房枝ら兄弟は幼いころから学問に励む毎日を過ごしました。
房枝も父の影響を受けて、女性にも教育が必要で社会進出に関しても積極的な考えを持ちながら成長します。
愛知県女子師範学校(現・愛知教育大学の前身)在学中は、つつましい良妻兼母教育に猛反発し、授業をボイコットするアクティブな学生でした。
20歳、師範学校卒業後は、小学校の教師になりました。
が、体調を崩して退職し約1年間の療養生活を送ります。
24歳、今度は名古屋新聞(現・中日新聞)の記者として活躍しますが、僅か1年で新聞社を退職して上京しました。
兄の友人が開く山田嘉吉塾で英語を学び、ここで女性運動家・平塚らいてうと出会いました。
26歳、1919年に、女性運動家・平塚らいてう らと日本初の婦人団体「新婦人協会」を設立しました。
女性の政治参加や、生活地位の向上を求め、治安警察法の改正運動を起こしました。
その後、アメリカに行き、シカゴやニューヨークで婦人運動や労働運動を勉強しました。
帰国後の1924年、ILO・国際労働機関東京支部のスタッフとして3年間勤め、女性の労働時間に関するリサーチを行いました。
1927年からは政府や各政党に母子の保護や政治汚職問題など、女性を取り巻くあらゆる問題を猛アピールし、解決に向けて取り組みます。
1945年、52歳で戦後初の婦人団体・新日本婦人同盟の会長に就任しました。
同年12月には、選挙法改正により、男女普通選挙である女性参政権が実現し、翌年に行われた第22回衆院選挙では、房枝らの活動が実り39人の女性議員が生まれました。
1953年、第3回参院選挙に東京地区から立候補し見事当選を果たします。
1974年の第10回参院選挙で全国区から立候補し当選。
1980年の第12回参院選挙では87歳という高齢でのトップ当選を果たしました。
が、1981年に心筋梗塞により、亡くなりました。
女性政治家のパイオニアと呼ばれた房枝のトップ当選の秘密は、「出たい人より出したい人」をコンセプトにした、有権者の立場に立った選挙スタイルでした。
世間からは「理想選挙」と称されたことで圧倒的な人気を誇る議員でした。
通算5期の25年にわたる議員生活を称え、哀悼演説と永年在職議員表彰が贈られ、一宮市の名誉市民となっています。
まとめ
ということで、
5分で市川房枝について!人物エピソードややったことでした。
市川房枝をかんたんに語るポイントは、
・婦人運動のリーダー
・平塚らいてう らと親交があった
・女性政治家のパイオニア「出たい人より出したい人」で人気を得た
最後まで読んでいただきありがとうございます^^