大正時代

小林多喜二とはどんな人物?死因が壮絶な拷問?有名な代表作品は?

小林多喜二(こばやしたきじ)といえば、作家で小説家ですね。

「蟹工船」という作品があまりに有名なプロレタリア作家で、最期はあまりに衝撃的な死を遂げました。

プロレタリア文学とは、1920年代から1930年代前半にかけて流行した文学で、虐げられた労働者の直面する厳しい現実を描いたものである。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 

今回、小林多喜二のかんたんな経歴死因が壮絶な拷問?について有名な代表作品は?について、紹介していきますよ。

小林多喜二、プロフィール

名前:小林多喜二(こばやし たきじ)
出身地:秋田県北秋田郡下川沿村(現・大館市)
生誕:1903年10月13日
死没:1933年2月20日
享年:29歳(拷問)
時代:明治時代-大正時代-昭和時代

 

かんたんな経歴、何した人?どんな人?

林多喜二(こばやしたきじ)は、父・末松と母・セキの次男として、秋田県北秋田郡下川沿村(現・大館市)に生まれます。

小林家は食べていくのが精一杯の貧しい農家でした。

 

4歳の頃に、北海道小樽市でパン工場をしていた伯父・慶義の勧めで、家族全員で小樽の若竹町に移り住みました。

両親は伯父のパン屋さんで働き、多喜二もパン工場を手伝いました。

一家で伯父のパン工場をサポートする代わりに、多喜二ら兄弟の学費を伯父が出してくれたことで、小学校卒業後は小樽商業学校そして小樽高等商業学校(現・小樽商科大学)へと進学します。

生活こそ楽ではありませんでしたが、貧しい農家に生まれた多喜二にとって夢のような生活でした。

 

が、当時の北海道小樽には北海道開拓のために、数多くの肉体労働者が、過酷な環境で働いていました。

自身も貧しい農家出身だった事を重ね合わせ、生活の苦しさや厳しい労働条件をいつも身近に感じていたのです。

このころ、日本では労働者たちが立ち上がり一致団結し、より良い労働条件を求め頻繁にデモを行った時代でした。

多喜二も一緒にその運動に参加しました。

 

また水彩画や詩、短歌などの創作に打ち込みました。

志賀直哉(しがなおや)の影響を受けて文学活動を開始します。

文芸誌に積極的に作品を発表し、入選しました。

 

1924年の21歳、小樽高等商業学校を卒業した多喜二は、北海道拓殖銀行小樽支店で為替係として働きます。

農民の子が働きながら勉強して手に入れた、ささやかな生活の始まりでした。

初任給で音楽好きの弟にバイオリンをプレゼントし、両親には毎月仕送りするなど多喜二は家族思いでした。

 

そして銀行員になってからも、文学活動の熱は冷めることなく、作品を発表し続けます。

この頃、父親の借金返済のために働いていた田口タキと知り合い、恋人関係となります。

タキを切ない境遇から救いだそうと家族と一緒に暮らし始めますが、身分の差に抵抗を感じたタキは多喜二のもとを去っていきました。

 

5歳の1928年3月15日、多喜二の人生に大きな影響を与えた「三一五事件(さん・いちごじけん)」が起こります。

これは、全国で数千人の反戦を訴える者が逮捕された共産主義者へ対する弾圧事件です。

多喜二の知り合いも逮捕されました。

多喜二は衝撃的な拷問の様子を、文芸雑誌・戦旗に「一九二八年三月十五日」で発表します。

戦旗は、社会主義思想や共産主義思想と繋がるプロレタリア文学専門の文芸誌でした。

この作品がきっかけとなり、多喜二は警察からマークされてしまったのです。

 

翌年の1929年、多喜二は代表作となった「蟹工船」を発表します。

すると警察から要注意人物の扱いを受けてしまったのです。

また作家活動で拓殖銀行の実名を使ったことが、名誉毀損にあたるとし解雇されてしまいました。

日本共産党への資金援助の疑いや、作品の中で軍国主義を批判したことが天皇への不敬へ当たるとされ逮捕と釈放を繰り返します。

名前と身を隠す生活でした。

 

1923年2月20日、共産党メンバー・三船留吉(みふねとめきち)と会う約束をしていた多喜二は、東京・赤坂で逮捕されました。

三船は、警察のスパイ活動もしていたのです。

多喜二はすぐに逃げ出しましたが、警察が「泥棒!」と大声で叫んだことで取り押さえられ、その日の夕方、多喜二は帰らぬ人となりました。




死因は壮絶な拷問?

林多喜二の死因は壮絶な拷問だったのだといいます。

彼が逮捕された次の日、警察は多喜二の死因を心臓麻痺と発表しました。

しかし、遺体となってしまった多喜二の体は全身が無数の内出血で腫れ上がり、足には十数箇所に釘を打たれたような酷い傷が残っていました。

どこの病院も警察を恐れて、本当の死因を公表出来ないために、多喜二の解剖は行われることはありませんでした。

母・セキは、そのあまりに酷い痛々しい姿の多喜二を抱きしめ、泣き叫び続ける事しかできませんでした。

(家族思いの多喜二であったからこそ、このような話を聞くだけで辛くなってきてしまいます。)

 

有名な代表作品は?

林多喜二の有名な代表作品は、1929年に発表された「蟹工船」です。

 

この小説は、オホーツク海を舞台に繰り広げられる蟹漁の物語です。

劣悪な労働環境で働く貧しい労働者は、軍国主義・資本主義システムの犠牲者として描かれています。

作品の中で、天皇への献上品である蟹の缶詰に「石ころでも入れておけ!かまうもんか!」との表記が不敬とされ、これが不敬罪で逮捕された原因でもありました。

今の時代と重なる部分があるのとのことで、現代でも人気の作品なのです。

 

まとめ

ということで、
小林多喜二とはどんな人物?死因が壮絶な拷問?有名な代表作品は?でした。

 

小林多喜二を簡単に語るポイントは、

・日本を代表するプロレタリア作家

・「蟹工船」が代表作で、軍国主義・資本主義の歪みを描いた

・最期は壮絶な拷問だった

 

最後まで読んでいただきありがとうございます^^

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りょーま(管理人)
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POSTED COMMENT

  1. 9歳の歴史の神 より:

    1933年に忙殺された可哀想

  2. 匿名 より:

    1932年

  3. 名無しのどん兵衛 より:

    本当に拷問があったのか、というものもありますね
    元特高(特別高等警察)の証言などから…
    元特高の人は戦後そのせいで公職追放されましたから話が嘘なんてのはないと思いますが…

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