秀吉の正室・ねねを5分で知る!子供やねねの道の由来

ねねといえば、あの豊臣秀吉の正室として有名女性ですよね。

今回、ねねの人物エピソードや偉業秀吉との子供や「ねねの道」の由来などについても、カンタンにわかり易く紹介していきますよ。

 

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ねね、プロフィール

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ねね
生年月日:1549年(諸説あり)
死亡年月日:1624年10月17日
時代:室町時代(戦国時代)-安土桃山時代-江戸時代初期

豊臣秀吉の正室

 

人物エピソード

天下日・秀吉をずっと支え続けたねね。彼女はどのような人物だったのでしょうか。

ここでは、ねねの人物像がわかるようなエピソードを紹介していきます。

 

めっちゃ美人だった?

ねねはめっちゃ美人だったのだそう。

これは、ねねと信長のエピソードでわかります。

 

元々、秀吉とねねのキューピットが信長なのですね。

信長が趣味の「鷹狩り」をした帰り、浅野長勝の屋敷に立ち寄りました。

そこにいた養女ねねが信長、秀吉に茶を出したのです。

その時に信長はねねを「良い娘だ!」と大変気に入り、

「藤吉郎(当時の秀吉の名)、この娘を妻にしろ」と言ったのだそう。

信長が気に入るほどですから、まず可愛い娘だったのでしょう。

 

 

そしてさらに、ねねが秀吉の浮気グセに嫉妬し嫌になって信長に相談したことがありました。

すると、あの信長が、魔王・信長が手紙で返事をくれたのですね。

 

その手紙には、

「あのはげねずみには、お前ほどの素敵な女はもったいないのに。それがわからんのかあのバカは。

お前は本当に素晴らしい良い女で、この前久しぶりにあった時は見違えた。だからそんな事にヤキモチを妬いてはいけない。格が下がってしまう。

お前は正室らしく堂々と、どっしり構えていなさい。この手紙は秀吉にも見せてやりなさい。」

とのような事が書いてあるのでした。

 

あの、信長がこんなお世辞というか、思ってもいないような事は書かないはずなので、ねねは本当に美人だったのでしょうね。

 

 

ステキな性格だった

ねねはとても素敵な心の持ち主だったということで、知られています。

まず、面倒見がめっちゃ良くてみんなから愛されていました。

秀吉との子供こそいないですが、秀吉の親戚の子供らの面倒見もしていて、あの福島正則、加藤清正らも、ねねの事を母のように慕っていました。

また普段は側室たちと仲良しで、お祭りの度に側室たちと遊びにいったりしていたのです。

 

 

秀吉とはめっちゃ仲良し!

秀吉が心の底から心を許したのが、正室のねねだけなのですね。

勝ち気な性格でもある妻ねねは、秀吉とふたりきりの時は、お互いに尾張弁全開で会話していたのだそう。

その荒い口調は、本人たちはふつうに会話しているつもりでも、周りからみれば喧嘩しているようにもみえたのだといいます。

あの豊臣秀吉に、女性陣で全く気を使わず話せるのは、最愛の妻・ねねだけだったでしょうね。

 

秀吉がねねに送る手紙などには、ねねへの愛がとても感じられます。

文章の中では、つねにねねを気遣い、「ねねに逢いたい」とラブレターのようなものまで送っているのです。

女好きで知られる秀吉はちゃんと浮気はしていました。けど、基本的には奥さん大好きの愛妻家だったのです。

 

 

秀吉との子供は?

秀吉とはめっちゃ仲良しだったねねですが、子供には恵まれませんでした。

この2人に子供ができていたなら、歴史は完全に変わっていたと言う人もいますがどうなんでしょう。

 

ちなみに、秀吉の血を引いた子供は4人いましたが、そのうち2人は幼いころに死去。

あとの2人は、あの茶々との子供。有名な鶴松と秀頼ですね。

 

 

まつは親友だった

ねねとまつは親友で、とても仲良しでした。

まつといえば、前田利家の正室で、肝の座った気の強さは有名です。そしてこちらも超美人とのこと。

ねねと秀吉は、豪姫(利家とまつの娘)を養女に迎え入れ育て、戦国大名・宇喜多秀家に嫁がせました。

ねねとまつは、はおばあちゃんになっても仲良しで、2人で温泉に入った事の記録も残されているのですよ。

 

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偉業

とても人望があって慕われていたねねですが、どんな偉業があるのでしょうか。

ここではねねの偉業、ねねの道についても紹介していきます。

 

秀吉の正室、最強のアゲマン

ねねの偉業といえば、それはもう秀吉の妻であったことそのものでしょう。

ねねはそこで、尊敬され、慕われ、崇拝さえされるほどの人物でした。

 

例えば、

  • 戦で城主を代行
  • 本能寺の変で、追ってから逃走
  • 朝廷との交渉を担当
  • 秀吉が揉め事を起こすと寧々が仲裁する
  • 聚楽第で人質の管理

などなど、重要な仕事もしょっちゅうしてます。

 

そのぶ厚い人望は、ねねに仕えた女性たち、秀吉の家臣たちの家族、織田家の周辺、さらには秀吉の敵などで、僧侶や神官たちもねねに協力したといいます。

ねねはとても優秀な政治家でもあり、秀吉にとっても妻でありながら、側近のようなものでもあったのです。

 

 

高台寺をたてた

高台寺は、秀吉の死後に建てられたお寺です。秀吉を弔うためにねねが建てたのです。

これも、滅んだ豊臣家の菩提寺(先祖代々のお墓のあるお寺)としては、ちょっと造りが豪華すぎるのですね。

豪華な秘密は、建築にあの徳川家康が関わっていたとされるからなのですね。

家康も秀吉の死後、ねねをとても大切に扱ったとのこと。

ここでも、ねねの半端ではない人脈が伺えますね。

秀吉のお墓は、高台寺ではないのですが、ねねのお墓は高台寺の中にあります。

 

 

「ねねの道」ができた

「ねねの道」といえば、現在では京都の有名な観光名所ですね。

ここはもちろん、ねねを縁としていて、高台寺の西側に続く石畳の道です。

秀吉の死後の余生、ねねはこの道を歩いて高台寺を行き来し、秀吉のことを想っていたのかもしれません。

 

 

まとめ

ねねの性格や人物エピソード、偉業や「ねねの道」について紹介しました。

本気で秀吉が天下人なったのも、ねねが大きく貢献しているのですね。秀吉の浮気に嫉妬するかわいい一面もありますが、それでもやっぱり肝の座ったかっこいい女性でした。

 

ということで、ねねをカンタンに語るポイントは、

・ねねはめっちゃ美人だったらしい

・半端ない人脈、人望、政治力

・豊臣家のお墓の高台寺や「ねねの道」について

 

こんな感じですね。(・∀・)

 

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