内村鑑三(うちむらかんぞう)といえば、キリスト教思想家ですね。
英語で「代表的日本人」を書き、日本独自の無教会主義を唱えた人物です。
今回、内村鑑三のかんたんな経歴、不敬事件って?について、偉業や人物エピソード!について、紹介していきますよ。
内村鑑三、プロフィール
名前:内村 鑑三(うちむら かんぞう)
出身地:武蔵国江戸小石川(現:東京都文京区小石川)
生誕:1861年3月23日
死没:1930年3月28日
享年:70歳(病死)
時代:江戸時代~昭和時代
かんたんな経歴、何した人?どんな人?
内村鑑三(うちむらかんぞう)は、高崎藩士の父・宜之と、母・ヤソの長男として、江戸小石川の武家屋敷に生まれました。
5歳のときに、父・宣之が謹慎処分をうけてしまい、家族で高崎(群馬県高崎市)に移り住みます。
小さいときは、儒学や英語を熱心に学びました。
12歳からは、もっと英語を勉強するために、東京の有馬学校英語科や、東京外国語学校に入学しました。
16歳で、札幌農学校(現・北海道大学)の、2期生として入学し、水産学を勉強します。
ここで生涯にわたり友人となった、新渡戸稲造や宮部金吾と出会います。
そして洗礼を受け、キリスト教徒となりました。
札幌農学校を首席で卒業したあとは、北海道開拓使民事局に勤務します。
その傍らで、札幌独立キリスト教会を創立。
キリスト教の普及をする伝道師として活躍するため、仕事を辞めてしまうほど熱心に活動しました。
両親の大反対に合いながら浅田タケと結婚しましたが、タケの浮気が原因で7ヵ月後に離婚します。
タケの浮気で、相当なショックを受けた鑑三は、アメリカ留学に旅立ちました。
1884年、アメリカの養護学校で看護人として働いたことで、医師になりたいと考えます。
がしかし、米国滞在中の新島襄(にいじまじょう)のアドバイスを受け、再び伝道師を目指しアマースト大学、ハートフォード神学校へと入学します。
しかし、アメリカでのキリスト教のあり方に疑問や不信を抱き、1888年5月に帰国しました。
帰国した鑑三は、新潟や東京で教師として働き、英語や水産学、そして聖書を教えます。
またこの頃、旧高崎藩士の娘・加寿子と再婚しました。
そして、1891年1月に日本中から大ブーイングを受けた「不敬事件(下で説明があります。)」が起こり、教師を辞めます。
妻・加寿子は、不敬事件での精神的ストレスからの病によって亡くなり、鑑三もまたこれらの大きな精神的ダメージを受けたのでした。
そのときは親友である、新渡戸稲造や宮部金吾らに支えられました。
そして、伝道師として本格的に人生を歩み始めます。
1892年のクリスマスに、岡崎藩士の娘・静子と再婚します。
著作活動にもエネルギーを注ぎ、「基督信徒のなぐさめ」や、英語で「代表的日本人」を発表しました。
そして、日本独自のキリスト教、「無教会主義」を唱え広めます。
また日本で初めての聖書雑誌「聖書之研究」を作り、社会主義を批判し平和を訴えました。
1922年に、世界伝道協賛会を創立。
無教会主義を世界に向けて発信しました。
1930年、心不全によりこの世を去りました。70歳でした。
不敬事件って?
不敬事件ってなに?ってことですよね。
調べると、「内村鑑三の不敬による事件」なんて直球でかかれています。
ちょっと説明してみましょう。
教育勅語(きょういくちょくご)が発布された1890年、鑑三は第一高等中学校の教員として働いていました。
教育勅語とは、明治天皇が日本国民に対して発表した教育の基本方針です。
日本を近代国家へ成長させるための、国民の教育が望まれました。
当時の日本は明治維新で、西洋文化の人気が高まっていました。
日本の伝統的な倫理観や道徳観が薄れてきていたのです。
そこで、先祖より引き継いだ日本の豊かさや美しさを守るべく、教育勅語が発表されました。
1891年1月9日、第一高等中学校で行われた教育勅語奉読式において、不敬事件は起こりました。
奉読式では、明治天皇のサインに対し最敬礼(深いお辞儀)を求められたのです。
無教会キリスト教信者だった鑑三は、教育勅語への最敬礼は宗教的なイベントと捉え、明治天皇のサインに軽く頭を下げました。
鑑三は最敬礼をしなかった事で、天皇を尊ぶ気持ちがない不敬とみなされ、日本中から大ブーイングを浴びました。
結果として教員を辞めることになったという事件です。
この事件のショックで、妻・加寿子は体調を悪くしたとされ、亡くなっています。
内村鑑三自身も、大きく精神的ダメージを受けたのでした。
何か人物エピソードはある?
内村鑑三の人物エピソード。
ここでは、彼の思想について、ちょっと簡単に掘り下げてみます。
内村鑑三の思想は、「二つのJ」と言われています。
二つのJとは、Japan(日本)とJesus Christ(ジーザス・クライスト=イエス・キリスト)のJの事です。
鑑三は、キリスト教の中でも日本独自の無教会主義を唱えました。
が、この思想は敵を増やし、孤立する事となりました。
鑑三は大学卒業後に、キリスト教の普及活動をする伝道者を再び志し、ハートフォード神学校に入学しました。
しかし、キリスト教信者を増やすことだけを考えている教会のあり方に、疑問と不快感を抱いたのです。
チップの要求や人種差別、宗派同士での対立など、嫌な現実を目の当たりにしたのでした。
そのネガティブな感情を取り除くために、日本独自の無教会思想を持ち始めます。
鑑三は、「人間は皆、個人でキリストと結ばれる」と考え、教会でのセレモニーとセレモニーを執り行なう牧師は不要と考えました。
これにより、キリスト教伝道師から嫌われ、また日本人からも独自の宗教観が嫌われてしまったのです。
しかし鑑三は、キリストも日本もかけがえのない存在として「二つのJ」に、生涯を捧げたのでした。
まとめ
ということで、
5分で内村鑑三について!不敬事件って?偉業や人物エピソード!でした。
内村鑑三をかんたんに語るポイントは、
・日本独自の無教会主義を唱えた
・不敬事件は、大きな社会問題だった
・かけがえのない「二つのJ」に人生を捧げた
最後まで読んでいただきありがとうございます^^