豊臣秀頼(とよとみひでより)といえば、あの豊臣秀吉の息子ですね。
秀吉亡き後には大坂の陣で徳川家康に敗れ23歳という若さで自害する短い人生だった徳川秀頼ですが、実はさまざまな謎がある人物なのです。
今回、豊臣秀頼のかんたんな経歴、本当は父親は秀吉じゃない?誰の子?について、死因は?について紹介していきますよ。
豊臣秀頼、プロフィール
豊臣秀頼(とよとみ ひでより)
出生地 大阪
生誕 1593年8月29日
死没 1615年6月4日
享年 23歳
時代 安土桃山時代-江戸時代
かんたんな経歴、何した人?どんな人?
豊臣秀頼は豊臣秀吉の子として大阪城で生まれました。
秀吉は我が子のために、後継者候補の秀次(秀吉の甥)を切腹させ、家臣たちに忠誠を誓約する書を作成し血判署名させています。
関ヶ原の戦いでは、西軍の総大将・毛利輝元の下におかれ、西軍が敗れた後には、徳川家康の手によって、ただの一大名という立場に転落してしまいました。
大阪冬の陣では母親である淀殿(よどどの)が、和議に応じて一旦終戦するものの、徳川勢が本丸を残して堀を埋め尽くしてしまったので、戦再開を宣言し大坂夏の陣が勃発しました。
秀頼は天王寺・岡山の戦いで前線に出ようとしますが、ここでもまた母の淀殿が反発し実現しませんでした。
豊臣秀吉も淀殿も我が子を溺愛していたのでしょう。
結局大坂夏の陣で敗れ23歳という短い生涯を終えたのでした。
誰の子?父親は秀吉じゃない?
豊臣秀頼は、秀吉の子じゃない説がささやかれています。
秀頼が生まれたのは豊臣秀吉が57歳の時です。今の時代でもちょっと考えられないですね。
本当の父親候補として有名なのは、秀頼が自害した時に淀殿と共に自害した大野治長(おおのはるなが)です。
大野治長の母親は、淀殿の乳母だったのでお互い信頼しあっていました。
この大野治長が秀頼の本当の父親だった説があるのです。
その他にも陰陽師だった説や、名古屋山三郎という武将、あの石田三成(!)だったという説もあります。
問題は、父親である豊臣秀吉が「もしかして自分の子じゃないかも」と疑っていたかどうかなのです。
秀頼が生まれたときにはすでに従兄の秀次が後継者になることに決まっていましたが、秀頼の方が血筋がいいと考え黙認していた可能性があります。
淀殿は織田信長の妹・お市の方の娘なので例え、仮に、もしも自分の血が入っていなくても織田信長の血を継ぐ秀頼が後継者だと全国の大名が恐れひれ伏すと考えていたのでしょう。
これが本当だとすると、秀吉は少し可哀想ですね…。
最後、死因について
豊臣秀頼の最後、死因について。
最後は、徳川軍に大阪城を占拠された後に、母の淀殿と共に逃げ出しましたが、結局包囲され自害しています。
1980年の発掘調査では、秀頼のものと思われる20代男性の頭蓋骨が見つかっています。
顎に介錯傷(自害する時に介助してもらった時の傷)がついていたことから自害したことには間違いないでしょう。
20代でこの世を去るという悲しい生涯でした。
まとめ
豊臣秀吉の息子で悲運の武将だった豊臣秀頼。
幼くして天下人の後継者に指名され、戦国時代の波に飲み込まれていった豊臣秀頼。
もし徳川家康ではなくて彼が天下人として政治を行っていたら日本の歴史は変わっていたかもしれません。
実は父親が違う人だった、実は大阪夏の陣で逃げ延びて鹿児島で生存していたという伝説的な逸話がたくさんあります。
本当に興味深い人物ですね。
ということで、
豊臣秀頼を5分で!誰の子?父親は秀吉じゃない?最後の死因は?でした。
最後まで読んでいただきありがとうございます^^