江戸時代

徳川綱吉を知る!身長124cm説の真相、政治「生類憐みの令」は誤解されている?

徳川綱吉(とくがわつなよし)と言えば、江戸幕府5代将軍で「生類憐みの令」があまりにも有名です。歴史のテストには必ず登場しますね。

今回、徳川綱吉のかんたんな経歴身長が124㎝の真相誤解の多い「生類憐みの令」について紹介していきます。

 

徳川綱吉、プロフィール

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徳川綱吉(とくがわつなよし)
幼名・徳松
出身地:江戸(現・東京)
生誕:1646年2月23日
死没:1709年2月19日
享年:63歳(死因・麻しん)
時代:江戸前期~中期

江戸幕府5代将軍

 

かんたんな経歴、何した人?どんな人?

川綱吉は、1646年に江戸城で生まれます。

父は、「我は生まれながらにして将軍である」と宣言した3代将軍家光公。

母は側室の玉(後の桂昌院)で、幼名・徳松(とくまつ)と名付けられました。

 

人して綱吉と名を改め、館林藩(現・群馬県)の藩主となります。

一番上の兄である4代将軍家綱(いえつな)の急死により将軍不在となり、そして家綱に子供が居なかったため、なんと!弟である綱吉が5代将軍に就任することになりました。

綱吉が将軍になる前の江戸は、「明暦の大火」と呼ばれる大火災により、江戸の町が半分失われるなど、当時の幕府は財政難に直面していました。

そんな中で、財政を立て直す「天和の治」で改革を行い、元禄文化をより華やかにしました。

元禄文化とは、平和な世の象徴のようなもので、様々な産業をはじめ農作物や工芸品の発展により経済が活性化したゴージャスなバブル成長期に似ています。

 

また綱吉は学問と能(演劇に近いもの)がとっても大好きで、自身も学問の普及に力を注ぐほどに熱心であり、そして自ら能を演じて楽しみました。

そしてあの有名な「生類憐みの令」が登場します。

 




政治「生類憐みの令」は誤解されている?

「生類憐みの令」とは、殺生を禁止する令ですね。

その対象は犬や動物だけじゃありませんでした。

その範囲は小さな蚊から人間まで含まれていたというから驚きです。そう、生きている物全部を指していたんです。

綱吉は、お犬様や犬公方とも呼ばれるように、徳川綱吉=「生類憐みの令(しょうるいあわれみのれい)」と、記憶している方も多いはずです。

 

の「生類憐みの令」は人々を苦しめるだけ苦しめた悪法と言われていますが、果たして本当にそうだったのでしょうか?

綱吉が世を治めていた時代は、元禄文化もあり人々には平和が訪れていました。

が、放火や喧嘩などが起こっており、中には我が子を捨てたり病人を放置したりすることが度々あった事から治安の悪化を懸念します。

そこに登場したのが「生類憐みの令」なのです。

 

「生類憐みの令」とは数ある法令をまとめた総称であり、その中には「捨て子禁止」や「病人は駕籠(かご)にのって良い」などがありました。

これは、悪法ではなく現代風に言えば、児童福祉法や救急車をイメージする社会福祉政策ともいうべきでしょうか?

ただ一言に「悪法だ!」というのも違う気がしますよね。

 




身長が124cmだったってほんと?

川綱吉の身長が124cmだった説。

愛知県岡崎市にある徳川家の菩提寺である大樹寺(だいじゅじ)には、徳川歴代将軍の位牌があります。

なんと、この位牌は亡くなった時の身長と同じサイズで作られているとされているのです。

 

また徳川家の遺骨の学術調査によると、この位牌と遺骨の差は5㎝の誤差もないとされているので、この位牌のサイズはまさに綱吉の身長であると思われます。

そんな綱吉の位牌は124㎝であることから、綱吉は当時の成人男性の平均身長155㎝よりも極めて小さく低身長症だったのでは?と言われています。

この説は、信ぴょう性があるというか、本当のことのようです。

 

まとめ

徳川綱吉を簡単に語るポイントは、

・偶然に徳川5代将軍になれた
・天和の治で幕府の財政を立て直した
・「生類憐みの令」は、庶民を助ける現代版の社会福祉だった
・学問と能をこよなく愛した
・元禄文化のゴージャスな世を生きた
・身長124㎝は、かなり真実に近かった

 

ということで、
徳川綱吉を知る!身長124cm説の真相、政治「生類憐みの令」は誤解されている?でした。

 

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りょーま(管理人)
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