徳川秀忠(とくがわひでただ)といえば、あの徳川家康の息子で徳川幕府二代目将軍ですね。
長男が家督を相続するのが戦国時代の常識でしたが、徳川秀忠は、三男坊でした。
なぜなら長男は謀反の疑いで切腹、次男は家康に嫌われて(!)いて35歳という若さで死去しているからです。
このように徳川秀忠が将軍になることは必然でしたが、実は秀忠は関ヶ原の戦いに遅れるなどおっちょこちょいだったと言われています。
今回、徳川秀忠のかんたんな経歴、性格エピソードについて紹介していきますよ。
徳川秀忠、プロフィール
徳川秀忠(とくがわ ひでただ)
出身地 静岡県
生誕 1579年5月2日
死没 1632年3月14日
享年 52歳
時代 安土桃山時代-江戸時代徳川幕府二代目将軍
かんたんな経歴、何した人?どんな人?
徳川家康と側室との間にうまれ、実質的な世継ぎとなりました。
関ヶ原の戦いでは、天候に恵まれず本戦開始までに間に合わなかったので家康の怒りをかいました。
自分の息子が決戦に遅刻してくるなんて父親として情けないやら腹立たしいやら…家康の気持ちをお察しします。
こんなことから、オッチョコチョイ(・∀・)とも言われています。
江戸時代が始まってから5年で家康は将軍職を秀忠に譲り、秀忠は二代目・江戸幕府将軍となります。
将軍職を譲ったからといって二元政治体制として家康も政治を取り続けていましたし、大坂の陣も父親とともに参戦しました。
「公家諸法度」や「武家諸法度」を制定し、幕府の地盤を固めました。
家康にならい秀忠も将軍職を嫡男・家光に譲ってからも、実権は手放さずに二元政治を行い、手腕をふるっていました。
性格がわかるエピソード?
徳川秀忠はどんな性格だったのでしょうか。
人物像がわかるようなエピソードを紹介します。
13歳の時、講義を受けている部屋に、牛が乱入して周りが大混乱になりました。
そんな中、徳川秀忠のみ冷静に講義を聞き続けていたそうです。
さらに能を鑑賞しているときに地震が起きた時。
このときも、冷静に素早く指示を行い、混乱と被害を最小限に抑えました。
このことから、物事を冷静に判断する能力があり、大胆な性格だといわれています。
冷静に、かつ素早く状況を判断し、周りに的確な指示を送ることが出来る人間こそ上に立つ人間にふさわしいのです。
そんな徳川秀忠でしたが、恐妻家の一面もありました。
女中に手を付けて四男・幸松を生ませていますが、その女中が側室になることはなく、幸松も養子に出されています。
天下の大将軍も自分の奥さんには頭が上がらなかったのでしょう。
戦国時代で怖いのは、武士だけではないということですね。(・∀・)
まとめ
偉大な父親の陰に隠れていると思いきや、武家諸法度を定めるなど政治的手腕を奮い、江戸時代の基盤を築いた徳川秀忠。家康と家光に挟まれてちょっと地味な感じがしますが、しっかりと徳川幕府の地盤を固めた方なのです。
反面、関ヶ原の戦いで遅刻したことがトラウマになり、大阪冬の陣では江戸(東京)から伏見(京都)まで17日間で到達しました。
しかし将兵はこの行程で疲れ果ててとても戦える状態ではなく家康に(また)怒られました。
そんな人間味あふれている徳川秀忠に興味が沸いた方はぜひファンになっちゃってくださいね。
ということで、
5分で徳川秀忠について!性格やしたこと、人物エピソード?でした。
最後まで読んでいただきありがとうございます^^