滝廉太郎(たきれんたろう)といえば、音楽の教科書に必ず出てくる明治期に大活躍した日本の天才作曲家ですね。
今回、滝廉太郎のかんたんな経歴、音楽の特徴や偉業、どんな生涯だった?について、紹介していきますよ。
滝廉太郎、プロフィール
名前:滝廉太郎(たき れんたろう)
出身地:東京府東京市芝区(現:東京都港区西新橋)
生誕:1879年8月24日
死没:1903年6月29日
享年:23歳(肺結核)
時代:明治時代
かんたんな経歴、何した人?どんな人?
滝廉太郎は、明治政府役人の父・吉弘と、母・正子のあいだに、長男として東京市芝区(現・東京都港区西新橋)に生まれました。
江戸時代の滝家は、現在の大分県である豊後国日出藩(ぶんごのくに ひじはん)で、代々家老を務めるエリート武士でした。
父・吉弘は、明治の廃藩置県後に、明治政府の役人として大蔵省や内務省で働き、あの大久保利通や伊藤博文の側近として仕えた人物なのです。
廉太郎が生まれてからは、父は地方の役人として活躍し始めたころで、幼いころは廉太郎も、父の転勤に合わせて、各地方を転々とし成長します。
3歳のころに、神奈川県少書記官となった父の仕事の関係で、横浜に移り住みます。
当時の横浜は、文明開化のシンボル的な街並みで、開業したばかりの鉄道や、日本で最初のガス灯があり、たくさんの西洋文化影響を受けていました。
姉がふたりいますが、ふたりともアコーディオンとヴァイオリンを習い、その影響もあり、廉太郎もヴァイオリンを弾いていました。
7歳で、神奈川県の尋常小学校に入学しますが、すぐに父の転勤によって、9月に富山県の尋常小学校に転向します。
転校先の富山の小学校では、その年の11月から富山県初の音楽会が毎月開かれました。
廉太郎も毎月開かれる音楽会で、雅楽や神楽から唱歌と、いろいろな音楽に触れ、感性を磨き上げていったのです。
その後また東京に移り住み、麹町の小学校に転校し、卒業時にはピアノを演奏していました。
高等小学校は父の故郷である大分で過ごし、卒業した廉太郎は音楽教師を志します。
15歳、従兄(いとこ)の大吉の家に住み、東京音楽学校(現・東京芸術大学音楽部)に入学しました。
廉太郎はピアノと和声学で才能を発揮します。
本科専修部を首席で卒業し、研究科へと進学します。
20歳ころ、音楽学校のピアノ教師をしながら、自身のピアノ演奏の腕を磨きます。
そしてこの頃、洗礼を受けクリスチャンになりました。
プロの作曲家として、次々に名曲となった「花」・「荒城の月」・「箱根八里」などを生み出していきます。
その他にも「お正月」「鳩ぽっぽ」の童謡が発表され、子どもから大人まで、幅広い世代の心をつかみました。
22歳、文部省音楽留学生としてドイツ・ベルリンへと旅立ち、ライプツィヒ音楽院に入学しました。
しかし、わずか5か月後、肺結核を患ってしまい、現地で治療を受けます。
が、治らずに帰国させられます。
その後、父の故郷大分県で療養生活を続けましたが、23歳の若さでこの世を去りました。
音楽の特徴はある?
滝廉太郎の音楽にはどんな特徴があるのでしょうか。
彼の音楽は、時代が求めていた日本に合ったメロディが最大の特徴です。
日本の美しい四季折々の情景や、歴史を誰もがすぐにイメージ出来て親しみやすいところがポイントです。
と、いうのも明治に流行っていた音楽は、西洋で作られた曲に無理やり日本語を当てはめた不自然な歌が多く、国民の多くが日本らしい音楽を求めた時代でした。
その国民感情に答えたのが、廉太郎のリズム、そしてメロディだったのです。
たとえばこの「花」なんて、日本人ならだれでも聞いたことがあるでしょう。
とっても素敵ですよね。(・∀・)
「荒城の月」は、ベルギーの修道院で聖歌として取り入れられています。
また、ドイツの人気ロックバンド・スコーピオンズがライブで演奏しており、世界中で愛されていることも特徴の一つです。
彼が残した楽曲は、34曲と多くはありません。
もっと長生きしたら、もっとめちゃくちゃ凄い音楽があったのかもと想像してしまいますね。
まとめ
ということで、
5分で滝廉太郎について!音楽の特徴や偉業、どんな生涯だった?でした。
滝廉太郎をかんたんに語るポイントは、
・幼少期の経験から、豊かな感性が作られた
・享年23歳と、若くして亡くなった
・世界的に有名な、日本の天才作曲家
最後まで読んでいただきありがとうございます^^