明治時代

幕末に翻弄され、悲しくも敵対した美濃高須4兄弟

〜時代に翻弄された兄弟 美濃高須4兄弟〜

こちらの写真をご覧ください。

この写真は、1878(明治11年)9月に撮影されたものです。

映っているのは4人の兄弟で、みな洋装をして、写っています。

 

みなが集まって写真に納まっているので、大変仲の良い兄弟なんだと思われるでしょうが、この4人は実は敵味方に分かれて戦ったのです。

兄弟げんかなんてよくある話、と思ってはいけません。この4人が敵味方に分かれて戦った戦は、戊辰戦争と呼ばれています。

ここでは、時代に翻弄された4兄弟の数奇な運命をご紹介します。

それぞれのお名前を明かしましょう

数奇な運命を紹介する前に、写真に写っている人物の名前をお伝えしましょう。

写真左からそれぞれ、松平定敬松平容保徳川茂徳徳川慶勝といいます。

 

この4人は、ともに美濃高須藩三万石の松平義建の子として生まれました。

高須藩は尾張松平家の支藩で、尾張徳川家に後継ぎがいなかった場合に、尾張家を継ぐ資格がある家柄でした。

この4人の中で年長の慶勝が、その習いにしたがって尾張徳川家を継ぎ、徳川慶勝となりました。

 

その他の兄弟も優秀さを知られていたため、徳川家中から養子に求められます。

茂徳は、徳川家を継いだ慶喜のあとに一橋家に入り、一橋茂徳となります。

また、容保は、親藩でも名門中の名門である会津藩松平家に養子として迎えられ、松平容保となります。

最年少の定敬も、親藩の名門、桑名藩松平家に入り、松平定敬となります。

 

太平の世であれば、優秀な兄弟が、名門の家に養子に入って、素晴らしいお殿様になりました。

ということで話は終わっていたはずでした。

しかし、時代は混迷の幕末を迎えます。

そうした時代が、4人の兄弟の運命を翻弄していくのです。

 




尾張藩祖義直の遺命

徳川慶勝

尾張藩に養子として入った慶勝は、尾張藩主たろうとして努力しました。

実は、養子として藩主の座について殿は、藩祖原理主義的な行動をとり勝ちです。

なぜならば、家臣からの「所詮は余所者」と思われて求心力を失うことを恐れて、藩の家訓や遺命をかえって実子よりも大事にするのです。

慶勝も、尾張藩祖・徳川義直の遺命を守って、藩を率いていきます。

 

ただ、尾張藩祖の遺命は「王命(天皇の命)に従うこと」でした。

そのため尾張藩は、徳川家の一門でありながら尊王思考の強い藩だったのです。

それが、慶勝にとっては後に血を分けた兄弟と戦うという苦渋の決断を強いることになるのです。

 




会津藩祖 保科正之の家訓

京都守護職として活躍した松平容保

同じように、会津松平家に養子に入った容保も、会津藩家訓にひたすら実直に守ろうとしました。

会津藩祖・保科正之は、家光の異母弟で信州高遠藩主から会津藩主にまで抜擢されました。

その恩を子孫が忘れないように「徳川家の命に従わない藩主は、もはや我が子孫ではない。家臣もそのような者に従ってはならない」と記しています。

徳川家への忠勤を第一にする会津藩に養子に入ったことが、容保の、そして会津藩の悲劇につながっていくのです。

 




幕府側として活躍した容保、定敬

日本が激動の時代に入った幕末期、京都は尊王攘夷派による暗殺事件(天誅)が続発し、治安が極端に悪化していきました。

1862(文久2)年、この京都を守るためにあった京都所司代という役職があったのですが、所司代だけでは手に負えなくなってきていました。

 

そこで、幕府は会津藩主・容保を「京都守護職」という役に就け、京都の治安維持を守らせました。

配下には新選組を従えて、尊王攘夷派の取り締まりに当たっていきます。

後に1864(元治元)年には、桑名藩主になっていた定敬が、京都所司代に就任。

兄弟そろって、幕府のために京都での治安維持活動を行っていきました。

桑名藩松平家に入った定敬 戊辰戦争で最後まで抵抗しました

しかし、それは、尊攘派からの恨みを会津藩・桑名藩が引き受けることを意味しました。

そして、時代は変わって、徳川慶喜が政権を朝廷に返上し(大政奉還)、徳川幕府は終焉を迎えたのです。

 




その時、尾張は

この政権返上を受けて、、朝廷は政権を得たことを宣言(王政復古の大号令)します。

この時、朝廷側の有力藩としては、なんと尾張藩が入っていたのです。

朝廷は、徳川慶喜のもつ官位と領地を朝廷に返納するよう命じる使者として、慶勝を指名します。

この命令を慶勝が伝えた相手は、徳川家御三卿である一橋家に養子に入っていた、徳川茂徳でした。

もちろん、慶喜はこれを拒否し、戊辰戦争が勃発することになるのです。

王政復古の際に激論が交わされた小御所会議

弟は朝敵になった

尾張藩は、官軍側の有力藩として活躍しました。

しかし、その官軍は、弟の容保、定敬を朝敵に指名し、追討令を発しています。

慶勝は尾張藩主として、藩兵に「朝敵(弟)を討て」と命じるしかありませんでした。

 

慶勝自身が戦場に行くことはありませんでしたが、戦況は伝わってきます。

1868(慶応4)年9月に会津藩は降伏し、容保は東京に護送されます。

定敬は、五稜郭まで抵抗をつづけたものの、1869(明治2)年5月に降伏。

こうした事態を、慶勝はただ聞くことだけしかできませんでした。

 




ようやく兄として……

慶勝は、東京にいた茂徳を通じて、容保と定敬の助命嘆願に奔走します。

戊辰戦争後は、慶勝は政治の表舞台にたつことはできませんでしたが、尾張藩の戊辰戦争での功績は多大でした。

その指揮をとった慶勝の発言権は大きかったのです。

 

ようやく兄として、弟のために動けるという想いが慶勝にあったのではないでしょうか。

慶勝の奔走もあって、容保と定敬は赦免されました。

この時、みんなどのような想いでいたのか

そして、幕末の激動の時代を生きた兄弟は、明治11年に再会し、冒頭の写真を撮影しているのです。

この時、時代の波に翻弄された兄弟の胸の内に去来したものとはいったい何だったのでしょうか。

(筆者・黒武者 因幡)

ABOUT ME
黒武者 因幡
歴史ライター。有名な人物から地域のちょっとした人物まで、その生き様やドラマを描く。 特に幕末や戦国期に関しては敗者に肩入れして書き上げるのが得意。謀反や裏切りに関しても、人間臭く書く。
この記事を読んだ方は、こちらもみています。