平清盛(たいらのきよもり)と言えば、平安時代末期に活躍した人物で、貴族社会を終わらせ武家社会の始まりのきっかけを作った重要人物です。
今回は、平清盛のかんたんな経歴、じつは優しい性格?について、平清盛が大金持ちになった貿易の港について紹介します。
平清盛、プロフィール
名前:平清盛(たいらのきよもり)
出身地:京都(現:京都府京都市)
生誕:1118年2月10日
死没:1181年3月20日
享年:64歳(死因:熱病)
時代:平安時代末期
かんたんな経歴、何した人、どんな人?
平清盛は、1118年に平忠盛の長男として京に生まれました。
清盛が生まれた平家は、武家としては有力であり、当時スキャンダルが絶えなかった天皇家から頼りにされるほどの名家でした。
父の忠盛が亡くなると、清盛は平氏のリーダーとなります。
1156年、清盛がリーダーとなって間もない頃に天皇家のスキャンダルが表面化した「保元の乱(ほうげんのらん)」が起こるのでした。
この保元の乱は、後にライバルとなる源義朝(みなもとよしとも)と力を合わせ、後白河天皇(ごしらかわてんのう)を勝利に導き、これまでの貴族中心の政治に終わりを告げました。
そして平氏と源氏が政治に関わるようになったのです。
また貿易で国を豊かにしようと日宋貿易を成功させ、莫大な富を得る一方で、熱心な信仰心を持ち合わせており、広島の厳島神社の海上社殿は清盛のアイデアによるものでした。
1160年に「平治の乱(へいじのらん)」で、源義朝を倒すと、ここからは清盛中心の政治へとシフトしていきます。
清盛自身が太政大臣になり、娘の徳子(とくこ)を高倉天皇(たかくらてんのう)に嫁がせ、安徳天皇(あんとくてんのう)がうまれます。
その安徳天皇を僅か1歳で天皇に即位させ、その幼き天皇の変わりに清盛が政治を行っていたのです。
この平氏中心の政治体制は「平氏でなければ人間ではない」なんて言葉が残っているほどに力を持っていました。
そんな清盛の行う政治に世間が黙っているはずもなく、清盛に不満を抱く者たちが平氏を倒そうとします。
約5年に渡る源平合戦の始まった翌年の1181年に清盛は志半ばで、熱病によりこの世を去ったのでした。
性格は超優しい?エピソードは?
なんとなくですが、平家物語「奢れる者はひらしからずや」のイメージから平清盛の性格は悪人要素たっぷりの独裁者?と思いがちですね。
でも実は、情け深いピュアな優しい一面を持っていました。
それがわかる一番のエピソードは、平治の乱(へいじのらん)で、源義朝(みなもとのよしとも)に勝利した後の事です。
当時、ライバルの関係者(特に男)は、一人も残らずに死刑にされる事になっていました。
理由は、のちに力を蓄えて反撃してくる可能性があるからです。
しかし、平清盛は源義朝という頼れる父親を亡くした幼い子供たちを死刑にはせず、伊豆へ島流し(隔離)にしました。
さらには源義朝の側室であり源義経(みなもとのよしつね)の母である常盤御前(ときわごぜん)を清盛の側室とし、常盤御前を通じ子供たちを養ったのでした。
そして、この優しさが仇となり、後に平氏は源氏に滅ぼされてしまうのでした。
平清盛と源義朝の関係は、ライバルにして親友だったのですね。
こちらの記事で、源義朝について、平清盛との関係について、かんたんにわかり易く紹介しています。
>>>源義朝を5分で!平清盛とは親友にしてライバル?墓所は?
どんな貿易をしてた?
平清盛を語る上で欠かせないことは、日宋(にっそう)貿易です。
当時の中国と貿易をしていました。
清盛は、貿易によって利益を生み出していくことでより豊かな国作りをしようと考えていました。
そして貿易をより盛んに行うために、現在の神戸港(兵庫県)である大輪田泊(おおわだのとまり)の大修繕を行い大きな船が行き来できるように整備したのでした。
日本からの輸出品は、金・銀・硫黄などがあり、宋(そう・中国)からの輸入品は、大量の宋銭の他に織物・香料・薬などがありました。
国内で宋銭が流通することで、通貨という概念を広く確立させた経済センスは清盛が成したものでした。
まとめ
ということで、
5分で平清盛について!性格は優男?貿易の港ってどこだっけ?でした。
平清盛をかんたんに語るポイントは
・貴族社会から武家社会へのきっかけを作った
・武士として初めて太政大臣になり平家の全盛期を築き上げた
・孫を天皇にし、清盛自ら政治を行った
・日宋貿易を行い、お金持ちになった
・源義朝の妻子の命を助けた超優しい男だった
・平家滅亡を知らずに志半ばで亡くなった
最後まで読んでいただきありがとうございます^^