〜敗れた武将の子孫のその後〜
〇〇家滅亡。
こう書くと、その一族全てが殺され、根絶やしにされるというイメージをお持ちではありませんか。
戦国時代の浅井長政を例に出すと、お市の方と三人の娘は助けられたものの、長政本人は自害し、嫡男の浅井万福丸は逃亡したものの探し出され、殺害されました。
こうした厳しい処置をとったのは理由があります。
平安時代末期、平清盛が源義朝の3人の子供(頼朝ら)を助命したことで、平家滅亡につながったことがありました。
この轍を踏まないように、一族の男子を粛正するようになったのです。
有名な例では、平清盛の助命された源頼朝による義経や木曾義仲の遺児の殺害です。
頼朝自身が、平家を滅亡させたからこそ、子供を助けることの危険性を知っていたのでしょう。
しかし、そうした果断な処置というのは、実は日本では珍しいのです。
こういうと、意外に感じる方も多いかも知れません。
その証拠として、滅亡したと思われている家系が、意外なところで続いている例をご紹介しましょう。
石田三成の男児は生きていた
天下分け目の関ヶ原の戦いを引き起こした石田三成は、徳川家康に敗れました。
三成は天下の大乱の張本人ですからその子孫は残っていないと思われがちですが、実は意外な地で子孫は生き残っていたのです。
関ヶ原で三成が敗れた後、家康は三成の居城・佐和山城を攻め落としました。
この時、三成の父や兄をはじめ一族は多くが討死、あるいは自害しました。
しかし、三成の嫡男・重家は幸い、大坂城にいたため、難を逃れました。
この時、重家は京都妙心寺に入り、出家します。
当時、10代前半だった重家は、出家したことで許され、命脈を保ちました。
しかし、重家については出家したため妻帯はしておらず、子孫は残っていません。
石田家の血を今に残しているのは、次男の重成です。重成は津軽弘前の大名津軽為信の嫡男だった津軽信建によって、妹の辰姫とともに助けられたのです。
津軽家は、南部家との抗争が泥沼化していました。
そのため、為信は豊臣家に臣従することで領地の保障を得ようとしました。
この時、津軽家と豊臣家の窓口になったのが、三成でした。
三成は、南部家の主張を退け、津軽家の領地の安堵を秀吉から引き出しました。
この時の恩義を、為信は返したのです。
また、信建は、大坂で三成に可愛がられました。信建もまた、三成への恩義を返そうとしたのです。
西軍に近い信建は、家康への配慮から廃嫡されましたが、津軽家は弟の信枚が後を継ぎますが、信枚は辰姫を妻に迎え、津軽藩3代目となる信義を生んでいます。
重成も信枚の娘を妻に迎え、その子孫は代々、津軽藩の家老職を勤めました。
石田三成の血脈は、上方から遠く離れた青森で受け継がれていったのです。
真田幸村の子孫は仙台にあり
大河ドラマ「真田丸」で描かれていたので、ご存知の方も多いと思いますが、真田幸村の子孫は、仙台で生き残っていました。
きっかけは、大坂夏の陣において、道明寺・誉田の戦いです。
この時、伊達軍の先鋒を勤めていたのは、片倉重綱でした。
重綱は真田勢に向けて鉄砲を一斉射撃しますが、真田勢は踏みとどまりました。
そして、槍襖を押し立てて伊達勢に突撃し、真田軍と伊達軍は一進一退の攻防を繰り広げ、双方痛み分けに終わりました。
このあと、幸村はひそかに政宗の使いを出し、大坂にいる娘たちと次男の守信の行く末を伊達政宗に頼んだと言われています。
政宗もまた、この申し出を快諾しました。
この約束に従って、次男・守信は、大坂城落城後、姉らとともに、片倉重綱の家臣の手で助けられました。
政宗は、勇猛果敢な戦いぶりを見せた幸村の武名が途絶えるのを惜しみ、ひそかに守信を救い出したのです。
守信の姉の阿梅は、その後、片倉重綱の妻として迎えられました。また、守信も伊達家重臣として命脈を保ちました。
幸村の家系は、仙台真田家として今日まで続いています。
徳川家旗本は名家の宝庫
滅亡した家の系統が、実は徳川家の旗本として残っている例もあります。
その最たる例は、近江浅井家でしょう。
浅井家の当主・長政は、織田信長と戦って滅亡したことは冒頭でも書きましたが、長政が信長から離反する以前から、信長の家臣として活躍していた浅井新八郎政貞という人物がいます。
政貞は、信長の尾張統一戦の以前から臣従していたとされる古参家臣です。
信長の信頼も厚く、浅井朝倉攻めの際にも、赤母衣衆の一員として活躍しました。
政貞の次男の政重は、家康に仕え、そのまま旗本として浅井家の血筋を残しています。
また、浅井が出たならば、朝倉家も忘れてはいけません。
越前を治めた名家・越前朝倉家の血筋も旗本として残っているのです。
この血統を残したのは、朝倉在重です。在重の父・景高と越前朝倉家当主だった孝景が対立し、景高は越前から出奔しました。
この時、景高の長男の景鏡は越前に残りましたが、次男だった在重は父と別れて駿河の今川氏に仕えました。
在重は、今川家滅亡後、中村一氏、そして徳川家康に仕えました。
在重の子の宣正は、徳川忠長の付家老となりますが、忠長が改易された後、土井利勝の許で過ごしています。
そして、在重の子の正高が旗本として家名を残しています。
旗本といえば、徳川家の譜代の家臣たちがなっているものというイメージが強いですが、実はそうでもないのです。
この他にも、小田原北条家の末裔や、九州の太守として名をはせた大友家、室町幕府で三管領の一角として勢力を誇った畠山家など徳川家の旗本は名家の末裔の宝庫です。
〇〇家滅亡、と言っても、一族が根こそぎ粛清されたケースは、戦国時代でも少ないということがわかります。
この辺の恩情のかけ方が日本人らしさを表しているように思えますね。
(筆者・黒武者 因幡)