尾崎行雄(おざきゆきお)といえば、政治家ですね。
「憲政の神様」、「議会政治の父」などと呼ばれ、当選回数・議員勤続年数・最高齢議員記録はトップクラスを誇るすごい人です。
今回、尾崎行雄のかんたんな経歴、有名な演説って?について、紹介していきますよ。
尾崎行雄、プロフィール
名前:尾崎 行雄(おざき ゆきお)
出身地:相模国(現・神奈川県相模原市)
生誕:1858年12月24日
死没: 1954年10月6日
享年:95歳(直腸がん)
時代:江戸時代-明治時代-大正時代-昭和時代
かんたんな経歴、何した人?どんな人?
尾崎行雄(おざきゆきお)は、相模国(さがみのくに・神奈川県)の津久井県又野村に、長男として生まれました。
父は行正、母は貞です。
父は、神奈川県南多摩郡(現・東京都八王子市)の漢方医・峯尾道正の次男で、武士として活躍していました。
元々の尾崎家は、今川義元の家臣でしたが、武田信玄による駿河侵攻のときに又野村に移り、代々又野村の村長を務めてきました。
母・貞は尾崎家の一人娘だったために、父・行正を養子に迎えました。
10歳になった行雄は、明治政府役人になった父の仕事の関係で、東京の千代田区、群馬の高崎、三重の宇治山田と転々とします。
各地で英学校に通い、ほかにも漢学や国語など、いろいろな学問を学びます。
16歳になった行雄は、自由民権運動のブームのきっかけとなった民撰議院設立建白書(みんせんぎいんせつりつけんぱくしょ)に心を揺さぶられ上京。
そして慶応義塾に通います。
しかし、役人になるための勉強の日々に疑問を抱き、もっと世間の役に立つ染物屋になることを決意し、退学します。
工部大学校(現・東京大学工学部)で、染物屋の勉強をはじめます。
しかし、理系分野が苦手な行雄は、すぐにイヤになり、曙新聞社に論文を送る日々を過ごしました。
その論文の内容は、当時の薩摩(鹿児島県)を批判する「討薩論」でした。
それは多くの国民の心をつかみ人気となりました。
そして、福澤諭吉のサポートにより新潟新聞社で働きます。
そこでの仕事ぶりも、たいへん評判が良く、自らを「新潟新聞総理」と称するほどでした。
23歳、矢野文雄(やのふみお)の誘いを受け、統計院(現・統計局)で働きます。
が、「明治十四年の政変」ですぐに辞めることになります。
「明治十四年の政変」とは、憲法制定を巡って起きたトラブルですね。
大隈重信ら政府関係者が、伊藤博文(いとうひろぶみ)と井上馨(いのうえかおる)のコンビに、政界を追い出された事件です。
翌年、行雄は、大隈重信が結成した「立憲改進党」の活動に、犬養毅とともに参加し、全国各地を演説し、党の人気を高め盛り上げます。
25歳、演説で高い評価を得ていた行雄は、庶民からも慕われ、東京府会議員として政治家デビューしました。
その後、薩長出身メンバー中心の藩閥政治を強く批判すると、自由民権運動を反対する保安条例により東京退去を命じられました。
そしてイギリス・アメリカ留学へ旅立ちます。
1889年、31歳で明治憲法発布による恩赦で退去命令を解かれ日本に帰国しました。
1890年、父が余生を満喫していた三重県選挙区から、第1回衆議院議員選挙に立候補します。
圧倒的な大多数の支持を得て、見事当選します。
ここから63年の議員生活、連続25回の当選記録がスタートしました。
1898年、40歳で、初めての政党内閣となった「隈板内閣」の文部大臣に就任します。
議会を通じて軍閥政治・藩閥政治の批判を続けました。
それにより、暗殺されかけることもありましたが、「政界の麒麟児」や「もっとも首相に近い男」と世間から呼ばれました。
そして8月に共和演説事件が起こり、文部大臣を辞任します。
1903年、45歳、行雄は東京市長に就任します。
上下水道の拡張工事や、道路を作り直したりと、人々の暮らしのより良くするためにライフラインを整えました。
さらに、東京鉄道の買収や、ガス会社の合併など、いろいろ積極的に活動しました。
この頃、アメリカ大統領タフト夫人の、桜を植えたいという希望を知ると、3000本の桜の苗木を送ります。
行雄が送った桜は、現在でもワシントンの春の街を彩っているのです。
1912年、54歳で東京市長を辞任。
そのあとは、犬養毅と憲政擁護運動を起こし「憲政二柱の神」と呼ばれたりしました。
当時の桂内閣、そして山本内閣を、弾劾演説によって次々と辞職に追い込みました。
そして、第2次大隅内閣で、司法大臣に就任しました。
大隅内閣解散後は、第一次世界大戦後のヨーロッパへ旅立ちます。
「戦争は勝っても負けても悲惨な状況をもたらす」ことを受け止めて、平和主義者として婦人参政権運動をバックアップしました。
日本の軍国主義を批判しつづけ、政界では一人取り残されていきます。
が、1931年の満州事変勃発では「日本は間違えている」という主張を保ち、周囲の圧力に耐え続けます。
84歳、1942年の第21回衆議院議員総選挙の演説中に、昭和天皇への不敬がある発言をしたとして、不敬罪に問われ起訴されます。
後に無罪が確定しますが、1日だけ巣鴨拘置所に入りました。
晩年の行雄は、政界引退を考えていましたが、支持者の推薦により衆議院生活を続けます。
1953年のバカヤロー解散による、第26回衆議院議員総選挙で初めて落選し、政界を引退します。
長年の功績から「憲政の神様」・「議会政治の父」と呼ばれ、衆議院から名誉議員の称号、また第一号の東京都名誉都民に選ばれました。
1954年、95歳で直腸がんによりこの世を去りました。
有名な演説って?
尾崎行雄の有名な演説について。
これは、1898年8月21日に起こった共和演説事件ですね。
その日、行雄は教育団体の帝国教育会で開かれた茶話会に招待され演説を行いました。
そこでは、
「仮に日本に共和政治が行われるとしたら、三井、三菱が大統領の有力候補となろう」
という内容を含めた演説になりました。
これは、三井・三菱の財閥から大統領候補となる者が出てくるだろうと表現し、当時主流となりかけていた財力を持つものが政治を握ることを強く批判したのです。
すると日本では天皇が一番偉いのに、一般人を大統領候補とする発言は「天皇に対する不敬」と捉えられました。
明治天皇に謝罪し自身は文部大臣を辞任。
大隈重信率いる初の政党内閣の総辞職のきっかけを作りました。
尾崎行雄の経歴をかんたんにみてわかるように、彼はたくさん「演説」をしているみたいですね。
彼の人生では「演説は」とても大切なキーワードなのです。
まとめ
ということで、
5分で尾崎行雄について!有名な演説って?でした。
尾崎行雄をかんたんに語るポイントは、
・演説が上手く民衆の心を掴んだけれど、共和演説事件と不敬事件にもなった
・当選回数・議員勤続年数・最高齢議員記録の日本記録を持っている
・衆議院名誉議員・東京都名誉都民に選ばれている
最後まで読んでいただきありがとうございます^^