大岡忠相(おおおかただすけ)といえば、徳川八代将軍吉宗の知恵袋として江戸町奉行を勤めた幕臣です。
テレビや映画では大岡裁きと言われる人情味あふれる判決で、正義のヒーローとして扱われています。
今回、大岡忠相のかんたんな経歴、女性はいつまで性行為可能かを母親に聞いたエピソード? について紹介していきます。
大岡忠相、プロフィール
大岡忠相(おおおかただすけ)
大倉越前として知られている出身地 江戸
生誕 1677年(延宝5年)
死没 1752年(宝暦元年)2月3日
享年 75才
時代 江戸時代中期
墓所 神奈川県茅ヶ崎市堤、窓月山浄見寺。東京都台東区谷中、慈雲山瑞輪寺。
何した人?どんな人?
大岡忠相は、徳川五代将軍・綱吉の時代から9代・家重まで五代の将軍に仕えました。
が、やはり有名なのは8代・吉宗時代の活躍でしょう。
江戸南町奉行になってからは江戸の町政改革にとりかかりました。
・防火対策の強化のために町火消しを創設
・風紀の乱れを無くすために売春や賭け事の取り締まりを強化
・庶民の意見を聞くために目安箱の設置、低所得者のための病院として小石川養生所を設立しました。
ちなみに大岡裁きと呼ばれる『三方一両損』『天一坊事件』などの話は後世の創作で、大岡忠相が裁いたり関わったわけではありません。
ただ、江戸の町の発展や町民の暮らしのことを考えた大活躍っぷりを、後世の作家たちが評価し、名奉行としてその名声を高めるために大岡忠相のエピソードとして創作したというのが真実です。
かんたんな経歴
大岡忠相が出仕(幕府の役人になること)してからのかんたんな経歴、履歴書を紹介していきます。
1704年 27歳で書院番頭(将軍直属の親衛隊長)
1707年 30歳で使番(監察官)
1708年 31歳で目付(武士の不正を取り締まる役人)
1712年 35歳で目付から山田奉行に異動。能登守を名乗る。
1716年 39歳で山田奉行から普請奉行(城の土木関係の行政を担当する役職)に異動。
1717年 40歳で普請奉行から江戸南町奉行に異動。越前守を名乗る。
1722年 45歳で関東地方御用掛(関東地方の農業政策を担当する役職)に就任。
1725年 48歳で石高2,000石加増。
1736年 59歳で南町奉行から寺社奉行に異動。石高2,000石加増。
1748年 71歳で奏者番(武士の礼式を管理する役目)を兼任。石高4,000石増で合計1万石(三河国西大平藩主)となる。
1751年 74歳で病気により寺社奉行を辞任。
旗本生まれの身分にしては相当な出世をしています。
かなり優秀な人物だったということがわかりますね。
母親とのエピソードって?
大岡忠相と母親とのエピソードで有名なものがあります。
それは「女性はいつまで性行為可能か」を母親に聞いたというもの。
ちょっと紹介します。
大岡忠相が、不貞(今で言う不倫の事)をした男女の取り調べをしていました。
女性からの誘いに乗ってしまったとの男の釈明に納得がいかず、自分の母親に、女性はいくつまで性行為が可能かを聞きました。
聞かれた母は、黙って火鉢の中の灰をいじりながら「灰になるまでよ。」と伝えました。
これに対して大岡忠相がなんと答えたかは伝えられていません。
なんとも情緒のあるエピソードですね。(・∀・)
まとめ
大岡忠相は五人の将軍に仕えましたが、最もその才能を発揮したのは八代吉宗の時代でした。
江戸の町の発展や町民の暮らし向きに対する能力は相当に優秀で、庶民からも人気がありました。
現代に伝わる大岡裁きのエピソードの多くは、後世の創作で大岡忠相が関わったり、裁いたという事実は残っていません。
ということで、
大岡忠相を5分で!女性はいつまで性行為可能かを母親に聞いたエピソード?でした。
最後まで読んでいただきありがとうございます^^