マレーネ・ディートリヒといえば、世界的に有名なドイツ出身のハリウッド映画女優ですね。
とてもとても艶のある人で、その美脚は「100万ドルの脚線美」ともといわれました。
今回、マレーネ・ディートリヒのかんたんな経歴、どんな映画にでていたのかについて、娘のマリアがそっくりについて、紹介していきますよ。
マレーネ・ディートリヒ、プロフィール
本名:Marie Magdalene Dietrich
出生地:ドイツのベルリン
生年月日:1901年12月27日
没年月日:1992年5月6日
享年:90歳女優、歌手
かんたんな経歴、何した人どんな人?
マレーネ・ディートリヒは、プロイセン王国の近衛警察士官のお家に次女として生まれました。
彼女が幼いころに父は病死してしまい、次の父になった男も、第一次世界大戦で戦死しました。
少し成長すると、酒場などで歌い生活費を稼ぐようになりました。
この時、独学でフランス語をマスターするなどして、頭の良さと根性はすでに一流でした。
18歳、国立ヴァイマル音楽学校に入学。
ヴァイオリニストを目指します。
しかし、手首を痛めてしまい、ヴァイオリンをあきらめます。
20歳、演劇学校に入学。
翌年には『ナポレオンの弟』で、映画デビューしました。
23歳で、助監督のルドルフ・ジーバーと結婚。
同年には娘・マリアが誕生しています。
その後、夫とは別居しますが離婚はしませんでした。
離婚しない理由は、夫がカトリック教徒であるため、離婚が認められないからでした。
ブレイクは30歳ころでした。
舞台をしていたところ、映画監督ジョセフ・フォン・スタンバーグに認められ、ドイツ映画の『嘆きの天使』に出演しました。
そして、100万ドルの保険をかけたとされる美脚、個性的で艷やかな美貌、さらに美しい歌声で世界的に大ブレイクしたのでした。
その後アメリカにいき、多くの作品に出演します。
第二次世界大戦では、アメリカ軍兵士の慰問にヨーロッパ各地を巡りました。
その時、兵士が口ずさんでいた歌「リリー・マルレーン」をおぼえて、ドイツに向けた放送でも歌いました。
これらの慰問などの功績で、アメリカからは大統領自由勲章(アメリカ市民として最高の栄誉)、フランスからはレジオンドヌール勲章を授与されました。
戦後の壊滅したベルリンへ行くと、奇跡的に母親と再会。
その2か月後に、母は急死してしまいました。
引退は74歳。
コンサート中に足を骨折してしまったのがきっかけでした。
引退後の彼女については全く謎なのだそうですが、しばらくファンレターが絶えなかったそうです。
それまで出身地(ドイツのベルリン)について、一切語ったことのない彼女でした。
が、ベルリンの壁崩壊のときには「私は生粋のベルリンっ子よ、素晴らしいわ私の街は自由よ」と語ったのだそうです。
享年90。
死因は、肝臓と腎臓障害だったとされています。
亡くなる前の12年間は、寝たきりだったといいます。
どんな映画に出てた?
生涯で30以上の作品に出演したマレーネ・ディートリヒ。
その素晴らしい女優っぷりを、ちょっと紹介してみます。
モロッコ(1930年)の予告
この「モロッコ」では、アカデミー主演女優賞を受賞。
情婦(1958年)の一部
この「情婦」では、ゴールデングローブ賞の主演女優賞を受賞。
この時50代後半でした。
上海特急(1932年)の予告
スペイン狂想曲(1935年)の予告
見た目がいいのはもちろん、本格的な実力派の女優でもあったのですね。
彼女の名言として、
愛とは、愛することを楽しむこと、
愛されることを待つことではない
も有名です。
心まで美しい女性だったのでした。
娘がそっくり
マレーネ・ディートリヒには娘のマリアがいます。一人娘ですね。
そのマリアがこちら。
お母さんに似て、美人ですよね。
マリアは現在93歳。
マリアは女優とか歌手とかではなく、母のマレーネ・ディートリヒについて書いた本で有名になっています。
「ディートリッヒ」という本で、上巻下巻があります。
この本は母・ディートリヒについて第一級の史料とされています。
まとめ
ということで、
マレーネ ディートリヒってどんな女優?5分で知る偉人!でした。
・慰問の功績で、アメリカからは大統領自由勲章(アメリカ市民として最高の栄誉)、フランスからはレジオンドヌール勲章を授与された!
・アカデミー主演女優賞なども受賞した!
最後まで読んでいただきありがとうございます^^