室町時代

前田利家とはどんな人物?逸話やエピソードを簡単にわかり易く紹介

前田利家(まえだとしいえ)といえば、「槍の又左」で有名ですね。又左(またざ)とは利家の名前・前田又左衛門利家からきています。

今回はじわじわと人気を集める、前田利家の簡単な経歴まつとの子どもや子孫についてお墓の場所について紹介していきます。

 

前田利家、プロフィール

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前田利家(まえだとしいえ)
出身地:尾張国(土豪)
生誕:1539年1月15日(天文7年12月25日)
※天文5年、天文6年という説もあり。
死没:1599年4月27日(慶長4年閏3月3日)
享年:62歳(病死)
時代:室町時代(戦国時代)‐安土桃山時代

 

何した人?どんな人?

前田利家は、「加賀百万石」という領地を一代で築き上げた、もの凄い人物です。

どんな武将たちよりも波乱に満ち溢れた人生を送ったと言われています。

それでは、前田利家のかんたん経歴を紹介していきます。

 

かんたんな経歴

田利家は、1539年尾張国荒子村(現・愛知県名古屋市中村区荒子町)の、前田家の当主である前田利春(まえだとしはる)と長齢院(ちょうれいいん)の四男として生まれました。

幼名を「犬千代」といい、兄に前田利久・前田安勝、弟に佐脇良之・前田秀継がいます。

1550年、まつの父が死去したことで、まつの母が高畠直吉(たかはたなおきち)と再婚しました。

そしてまつは利家の父・前田利春に養育されることとなり、荒子城へと入ります。

 

5歳となった利家は自らの力で出世をしたいと思い立ち、3つ年上の織田信長に小姓として50貫で仕えることを決めます。

当時の利家はとても短気で喧嘩早く、派手好きだったため「傾奇者」としてその名が世間へと広まったそうです。

 

1552年、織田信友と織田信長が戦った「萱津の戦い」にて初陣を果たし、なんと首級を挙げる戦功を挙げたのです。

このことに信長も「肝に毛の生えた奴だ」と褒め称えたと言います。

 

の後、元服(げんぷく・成人の儀式)した利家は、前田又左衛門利家と名乗り、三間半(およそ6.3m)もの長槍をつかい、戦功をあげていったのです。

そんな彼に付いた異名が「槍の又左」でした。有名ですね。

 

かし、若い頃の利家は血気盛んであったため、度々問題もおこしていたのでした。

利家が起こした問題のなかで最も有名なものといえば、信長の弟であり、雑務を務めていた拾阿弥(じゅうあみ)とケンカをしてしまい、信長の眼の前で、斬首したことです。

拾阿弥を斬首してしまったことで、信長を怒らせてしまいました。

最初は処刑されるはずだったのですが、柴田勝家や森可成らが、信長へ利家の助命嘆願をしたため、減罰され出仕停止になりました。

諸国を放浪する、浪人となることで済んだのです。

 

1560年、「桶狭間の戦い」では、まだ出仕停止が解除されていなかったにも関わらず、無断で戦に参加します。

朝の合戦で首1つ、本戦で2つの合計3つの首を挙げるという大活躍をみせました。

しかし、信長は利家の帰参を許しませんでした。

 

帰参が認められたのは、1561年の「森部の戦い」でした。

ふたたび無断で戦に参戦した利家は、猛将・足立六兵衛(あだちろくべえ)を討ち取ります。

さらに首級1つを挙げ、2つの首級を持参して信長に面会すると、ついに帰参が認められたのです。

しかも、このとき300貫(一説には450貫文)の加増も受けたとされており、長かった浪人生活を終え、ようやく織田家に復帰することが出来たのです。

 

家が浪人中の1560年、父・前田利春が死去したため、前田家の家督は長兄である利久が継いだのですが、1569年に織田信長の命により、前田家の家督が利家へと移ります。

その理由は、兄である利久に実子がおらず、病弱だったからだそうです。

 

前田利家は、裏表のない性格の持ち主であり、「大うつけ」と呼ばれていた信長の破天荒な性格と通ずるものがあったのではないかと言われています。

そのため利家は、実は誰よりも信長に可愛がられていたと言います。




まつとの子ども、子孫は続いているの?

田利家は21歳のときに11歳のまつと結婚し、翌年には長女・幸姫が誕生しています。

その後なんと、まつとの間だけでぜんぶで2男9女の11人の子どもを授かったとされています。

まつは11人も子供を生んだのですね。

 

た、利家には正室まつの他に、側室がいました。

チヨ・岩・存・阿千代・於古和という側室がいて、彼女たちとのあいだにも7人の子どもを授かったそうです。

利家の子供は、わかっているだけでも、19人もいるのです。

「英雄色を好む」ってやつでしょうか。夜の方も猛将でした。(・∀・)

 

家とまつのあいだに授かった子どもたちは、それぞれの道を歩んでいます。

末裔、現代に子孫はいるのかですが、現在でははっきりとわかっていません。

もしかしたらあなたのご友人が利家の子孫かもしれません。

 

れにしても、まつは11人も生むなんて凄いですよね。

こちらの記事で、まつについて、簡単にわかり易く紹介しています。

>>>まつ(芳春院)とはどんな人物?子供やエピソードについて




お墓はどこにあるの?

田利家のお墓の場所について。

前田利家のお墓は、石川県金沢市の野田山にあります。

 

全山、前田家代々が祀られている墳墓となっていて、江戸時代の諸大名の比ではないと言われています。

2代目の利長のみ徳川家の犠牲となって、富山県にお墓が建てられていますが、その他は利家の墓を頂上に、山腹に代々同じ姿で祀られています。

 

前田家のお墓は、平成21年2月12日に野田山の加賀藩主前田家墓所と富山県高岡市の前田利長墓所と共に国史跡として指定されており、野田山近郊には代々墓守としてこの土地を守っています。

 

まとめ

前田利家とはどんな人物?逸話やエピソードを簡単にわかり易く紹介でした。

前田利家を簡単に語るポイントは、

  • 短気が招いた人生の失敗
  • 信長に対する忠義の心
  • まつとは11人、側室たちとも7人の子どもがいた!
  • 北陸地方の人々にとって前田利家はとても大切な存在であり、今も尚愛されている乱世の英雄

最後まで読んでいただきありがとうございます^^

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