黒田官兵衛(くろだかんべい)といえば、竹中半兵衛と「両兵衛(二兵衛)」と称される天才軍師ですね。
優れた策略と巧みな交渉術を持つたいへん優秀な戦国武将のひとりです。
今回、黒田官兵衛のかんたんな経歴、竹中半兵衛との関係はライバル?について紹介していきますよ。
黒田官兵衛、プロフィール
名前:黒田孝高(くろだよしたか)
通称:黒田官兵衛(くろだかんべえ)
出身地:姫路城
生誕:1546年12月22日
死没:1604年3月20日
※1604年4月19日という説もあり。
享年:59歳(病死)
時代:室町時代(戦国時代)‐安土桃山時代-江戸時代初期
何した人?どんな人?
黒田官兵衛は、小寺政職・織田信長・豊臣秀吉・豊臣秀頼の4名に仕えたとされており、「戦国三英傑」とも言われる偉人です。
豊臣秀吉がまだ羽柴秀吉と名乗っていたころ、秀吉の軍師として仕えていた竹中半兵衛と出会います。
ここでは、黒田官兵衛のかんたんな経歴を紹介していきます。
かんたんな経歴
1546年12月22日、黒田官兵衛は父・黒田職隆と、母・岩とのあいだに誕生した長男です。
官兵衛が14歳になったとき、母・岩が亡くなったため、悲しみのあまりふさぎ込んでしまい、文学に没頭するようになります。
そのとき、僧侶の円満が官兵衛に「軍師・張良」の話を聞かせたといいます。
すると官兵衛は、文学にのめり込むのを止め、武芸と学問に打ち込むようになりました。
1562年、16歳となった官兵衛は、小寺政職に仕える事となり、父と共に小規模の豪族を征伐するという初陣を飾ります。
1564年、妹・詩織が浦上清宗のもとへと嫁ぐ大切な婚礼の日に、赤松政秀の奇襲に遭い、浦上親子と娘の詩織が殺害されてしまいます。
これにより、父・黒田職隆と赤松政秀が対立することになります。
その数年後、官兵衛が黒田家の家督を継ぐと、光姫を正室へと迎えいれます。
そして姫路城の城代(城主が不在のとき城を管理する職)となり、1568年12月には長男・松寿丸(のちの黒田長政)が誕生します。
1569年5月、凄まじい天才軍師っぷりで戦に勝利します。
宿敵の赤松政秀が、織田信長に属する池田勝正・別所安治・宇喜多直家らの支援をうけ、姫路城に3000の兵を仕向け攻撃をしかけてきたのです。
いつ落城してもおかしくない状態だったのですが、官兵衛は籠城しながら、城外の赤松軍勢に対し、たった300の兵を2度奇襲させ、なんとか撃退することに成功します。
しかし、その1ヶ月後、再び赤松政秀が3000の兵を従えて姫路城へとやってくると、官兵衛は精鋭150の兵に指示を出し、城外に本陣を構えて、これに対抗します。
しかし、圧倒的な力の差によって黒田家の重臣たちは次々と戦死してしまい、もう限界ギリギリになります。
それでも、英賀城主・三木通秋の救援がなんとか間に合い、数時間のうちに体制を整えると、赤松軍勢に対し、最後の強襲を仕掛けます。
すると、慢心していた赤松軍勢は混乱に陥り、見事、勝利することが出来たのです。
官兵衛は、1575年に「長篠の戦」での織田信長の勝利を聞き、天下の情勢は固まりつつあると見ました。
そこで、主君である小寺政職に、織田信長への臣従を勧めたのです。
そして、羽柴秀吉に取り次いでもらい、岐阜城にて信長に会ったのです。
その後、主君の小寺政職・赤松広秀・別所長治らと揃って、京で信長に謁見されました。
1577年10月、姫路城を秀吉に提供します。
秀吉は、官兵衛の智力と武勇を高く評価していたため、竹中半兵衛と共に参謀として起用し、織田勢として活躍するようになります。
そして、官兵衛と半兵衛の2人の策略によって、たった1ヶ月で播磨国(現在の兵庫県)の諸将から人質を取ると、織田家に臣従させることに成功します。
このように凄まじい大活躍ですが、秀吉がなかなか出世させませんでした。
それは、秀吉のもとで、すでに亡くなった半兵衛の分まで働き、徐々に力を付けていった官兵衛を、秀吉が恐れたからです。
官兵衛は、ものすごい功績を挙げたにも関わらず、加増は非常に少なかったそうです。
秀吉の思惑に気づいた官兵衛は、家督を長男・黒田長政に譲ると、自身は「如水軒」と号して隠居を始めます。
しかし、家督を譲ったにも関わらず、官兵衛は隠居が許されませんでした。
その後は秀吉の側近として仕え、「江戸無血開城(江戸の戦争を中止させた)」を成功させます。
隠居が許された官兵衛には、2000石の隠居料と大阪城下に屋敷を与えられ、引き続き秀吉に仕えることとなります。
1598年8月、豊臣秀吉が死去すると、官兵衛は京都に入り、伏見屋敷に身を寄せます。
1599年3月に前田利家が死去すると、息子・黒田長政は加藤清正らと共に石田三成を襲撃したため、黒田家は石田家とより一層敵対するようになります。
「関ヶ原の戦い」では、徳川家康率いる東軍に属し、西軍を降伏させたのです。
関ヶ原の戦いから1年後、黒田官兵衛と黒田長政それぞれに対し、徳川家康より加増や官位昇進が提示されたのですが、官兵衛はこれを辞退します。
そして、野望を抱くことなく、中央政治に関与することなく隠居生活を満喫し、1604年4月19日、京都府伏見藩邸にて静かに息を引き取りました。
竹中半兵衛とはどんな関係?
黒田官兵衛は竹中半兵衛とはどんな関係なのでしょうか。
「両兵衛(二兵衛)」と称される2人ですが、これは、友人であり、戦友といったところでしょう。
2人とも豊臣秀吉に仕えた参謀ですが、同時に活躍していた期間は、たったの4年です。
官兵衛が初めて半兵衛に出会ったのは、秀吉が姫路城を訪れたときです。
秀吉は官兵衛の才覚に惚れ込み、半兵衛と共に参謀として起用したことがきっかけで共に働くようになったと言われています。
よく「官兵衛と半兵衛は仲が悪い」と言われていますが、実際は互いに信頼し合う素敵な仲間だったと言います。
では、彼らの固い絆についてある1つのエピソードを紹介します。
戦を順調に進めていた織田信長でしたが、突然、信長の重臣・荒木村重(あらきむらしげ)が毛利軍と手を結び、謀反を企てたのです。
そこで官兵衛に荒木村重の説得を頼み、有岡城へと向かわせたのです。
しかし、有岡城を訪れた官兵衛は捕えられてしまい、日の当たらない狭い牢獄へと閉じ込められてしまいます。
そんなことを知らない信長は、どれだけ待っても帰ってこない官兵衛に対し、「帰ってこないのは裏切った証拠だ」というと、松寿丸(官兵衛の息子・のちの黒田長政)を殺せと秀吉に命じます。
この命を知った半兵衛は、「その役目、私が引き受けましょう」というと、持病の労咳を患っていたにも関わらず、急いで松寿丸のもとへ向かったのです。
そして、秀吉に偽の首を差し出し、自身の家臣に命じて松寿丸をかくまうことに成功します。
その後、有岡城の陥落によって官兵衛が救出されると、信長は半兵衛に対し「過ちを犯さずに済んだ」ととても感謝しました。
もちろん官兵衛も息子の命を助けてくれた半兵衛の友情に感謝し、涙したのです。
しかし、官兵衛が解放される前に、半兵衛は持病の悪化によって死んでいました。
帰らぬ人となっていた半兵衛には、直接感謝することはできなかったのです。
彼への感謝をどうしても表現したいという思いから、竹中家の家紋を貰い受けて、半兵衛の子・竹中重門が元服した際は、官兵衛が烏帽子親を務めました。
2人には、このようなエピソードがあり、とても素敵な関係だったことが分かります。
ちなみに、有岡城から救出された官兵衛の姿は、日光不足や栄養失調によって痩せ細り、頭髪は砂利禿げ、膝は曲がったまま動かすこともできず、皮膚病を患っているという酷い有様だったと言います。
そんな姿になりながらも、忠義を守り通した官兵衛の姿に秀吉は涙を流したそうです。
まとめ
黒田官兵衛を5分で!竹中半兵衛との関係はライバル?でした。
黒田官兵衛をかんたんに語るポイントは、
・織田軍に付いたことで、軍師・竹中半兵衛と運命的な出会いを果たした
・半兵衛亡き後、半兵衛の分まで秀吉を支え続けたが、石田三成らと確執が生じ、秀吉から怒りを買ってしまった
・晩年は伏見藩邸で過ごした
・竹中半兵衛とは深い絆で結ばれていた
最後まで読んでいただきありがとうございます^^
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