小村寿太郎(こむらじゅたろう)といえば、政治家ですね。
「日英同盟」と「ポーツマス条約」をむすび、関税自主権を獲得して「不平等条約」を改正したりと、大活躍した外務大臣です。
今回、小村寿太郎のかんたんな経歴、関税自主権ってなに?について、紹介していきますよ。
小村寿太郎、プロフィール
名前:小村寿太郎(こむら じゅたろう)
出身地:日向国(ひゅうがのくに、現・宮崎県)
生誕:1855年10月26日
死没:1911年11月26日
享年:57歳(肺結核)
時代:江戸時代~明治時代
かんたんな経歴、何した人?どんな人?
1855年、小村寿太郎(こむらじゅたろう)は、日向国飫肥藩(ひゅうがのくにおびはん・宮崎県)に下級藩士の父・小村寛平と母・梅子の長男として生まれました。
寿太郎の生まれた家は、父のつくった莫大な借金のために、両親はいつも生活に追われていました。
そのため、祖母に面倒をみてもらい、源義経や豊臣秀吉など偉人たちのエピソードを聞きながら育ちました。
6歳で、藩校の振徳堂(しんとくどう)に入り、様々な事を学んで行きます。
この頃の武士は算数をあまり学びませんでしたが、寿太郎はそろばんを持ち、算数も学びました。
また、家が貧しく学費が出せなかったのですが、掃除や敷地内の整備などの、ありとあらゆる雑務をし、学費を免除してもらっていたのでした。
自分から積極的に、友人たちとも遊びながら、たくさん勉強し、また農家の叔父を手伝い農業もしていました。
1870年、これまでの熱心な勉強が認められ、藩を代表して大学南校(だいがくなんこう)へ、進学します。
この大学南校とは、のちの東京大学です。
1875年、西洋文化を肌で感じたいと考えた寿太郎は、仲間といっしょに海外留学生として海外へ派遣してもらえるように政府に働きかけたのです。
そして、第1回文部省海外留学生に選ばれ、アメリカのハーバード大学へ留学し、法律を中心に勉強しました。
5年間の留学を終え、帰国後は司法省へ入り、大審院(現・最高裁判所)の裁判官として活躍しました。
1884年、外務省の翻訳局で、外国語を日本語に翻訳する仕事に就きました。
1893年、寿太郎の活躍が外務大臣・陸奥宗光に認められ、清国(中国)代理公使となります。
さらに、駐米(アメリカ)公使、駐露(ロシア)公使と歴任します。
1901年、第1次桂(かつら)内閣で外務大臣に就任します。
1902年には、ロシアの支配力に対抗するために日英同盟を結びました。
1905年、運よく日露戦争に勝った日本でしたが、財政面でも戦力面でも戦争を続けることは困難な状況でした。
そこで、日本にとってより有利に日露戦争を終わらせるための、「ポーツマス条約」を結びました。
第2次桂(かつら)内閣でも外務大臣に就任し、幕末に結ばれた「不平等条約改正」に向けて取り組みます。
1911年2月、粘り強い交渉を何度も重ね、ついに「日米通商航海条約」を結び、関税自主権を獲得しました。
続いて、ほかの欧米諸国との通商条約も結びました。
日本が世界各国と対等に貿易できるようになったのも、寿太郎のおかげといっても大げさではありません。
1911年8月、桂内閣総辞職によって政界を引退し、その3か月後に結核により57年の生涯を終えました。
外務省でも葬儀が行われ、寿太郎の功績が称えられました。
関税自主権ってなに?
関税自主権ってなに?ってことですよね。
関税自主権とは、外国から日本へ輸入した物に対して、付加する税金を自由に決める権利のことです。
ちょっと説明してみましょう。
おもに、植民地支配を受けている国は、関税自主権を持てませんでした。
関税自主権を持たないと、輸入品だけが安く流通することとなり、国内の商品の売れ行きが悪くなります。
結果として国内産業へダメージを与え、景気が悪くなってしまいます。
関税自主権を持つことで、輸入品と国内生産品の価格帯を同じように揃えられ、国内の経済安定につながるのです。
日本は、幕末の大老・井伊直弼が締結した日米修好通商条約を始め、欧米諸外国との条約に関税自主権がなく不平等条約とされていました。
不平等条約改正は、明治新政府の重要課題であり、その不平等条約改正を行ったのが小村寿太郎でした。
これはめっちゃ凄い功績なのです。
まとめ
ということで、
5分で小村寿太郎をについて!関税自主権ってなに?でした。
小村寿太郎とかんたんに語るポイントは、
・生まれた家がビンボーだった
・ハーバード大学へ留学できるIQの持ち主
・日英同盟を結んだ人
・ポーツマス条約を結んだ人
・関税自主権を獲得し、世界と平等に貿易できる日本を作った
最後まで読んでいただきありがとうございます^^