北里柴三郎(きたさとしばさぶろう)といえば、医学博士ですね。
日本細菌学の父と呼ばれ、北里大学をつくるきっかけになった凄い人物です。
今回、北里柴三郎のかんたんな経歴、なぜノーベル賞をもらえなかった?について、紹介していきますよ。
北里柴三郎、プロフィール
名前:北里柴三郎(きたさと しばさぶろう)
出身地:肥後国阿蘇郡(現・熊本県阿蘇郡)
生誕:1853年1月19日
死没:1931年6月13日
享年:79歳 (脳溢血)
時代:江戸時代~昭和時代
かんたんな経歴、何した人?どんな人?
北里柴三郎(きたさとしばさぶろう)は、村の重役を務める父・惟保(これのぶ)と母・貞(てい )の間に生まれました。
幼いころは、儒学や歴史を学び、16歳で藩校の時習館に入りました。
柴三郎は、「将来は軍人か政治家になりたいなあ。」と、夢みていました。
がしかし、藩校がなくなってしまい、スムーズにいきません。
そこで、両親の勧めでもあった、熊本の医学校に入りました。
医学校で、オランダ人医師の教師・マンスフェルトに出会い、医学の魅力に惹きつけられます。
一生懸命な柴三郎に心を打たれたマンスフェルトは、語学はもちろん、解剖学や生理学など医学に関する、いろいろなことを教えました。
1875年、柴三郎は専門的に医学を学ぶために、東京医学校(現・東京大学医学部)へ入学します。
在学中は、医学の勉強だけではなくて、剣道などのスポーツも積極的にしました。
マンスフェルト仕込の医学知識を持っていた柴三郎は、大学の教授とトラブルになることが多く、何度も留年しました。
それでも、1883年に医学博士になりました。
卒業後は、政治にも医学にも関係のある、「内務省衛生局」で細菌研究をテーマに働きます。
同じく熊本出身でドイツ留学の経験もある緒方正規は、柴三郎を指導してくれる良き先輩でした。
そして緒方の指導もあり、柴三郎の研究に対する熱意も周囲に認められ、ドイツ留学のチャンスがやってきたのです。
1885年、柴三郎はドイツのベルリン大学に留学しました。
結核菌やコレラ菌を発見した細菌学者・コッホの元で、熱心に研究をしました。
そして1889年、世界初の「破傷風菌純粋培養法」を発見。
翌1890年には「破傷風菌の抗毒体」を発見したのです。
これはとても凄いことで、この発見で、世界中から注目を浴びることになりました。
さらに、菌を少量ずつ動物に注射し、血清中に抗体を作る血清療法(ワクチン)を開発します。
破傷風菌は、土の中にいる細菌で、感染すると全身の硬直や呼吸困難に陥り、最悪の場合には死に至る恐ろしい感染症です。
また同僚のドイツ人医師のベーリングと、ジフテリア(ジフテリア毒素による気道の粘膜感染症)の血清療法を、連名で論文を発表しました。
この論文によって、柴三郎は第1回ノーベル生理学・医学賞の候補者となりますが、実際に受賞したのは一緒に研究をしてきたベーリングだけだったのです。
ノーベル賞は逃しましたが、柴三郎のこれまでの研究成果は、非常に高く評価され、欧米各国の研究機関や大学からスカウトされました。
しかし全て断り、日本の医学へ貢献するために日本へ帰国しました。
1892年、帰国後、柴三郎は感染症の研究機関設立に向けて、政府に猛アピールを続けますが、政府の役人に無視されてしまったのです。
無視される理由には、ドイツ留学中に発表した脚気の研究結果にありました。
当時、脚気も多くの人の命を奪う病でした。
東京医学校時代の先輩・緒方正規は、東大の教授へと出世していました。
緒方は脚気は病原菌によって引き起こると発表しており、これを否定したことが原因だったのです。
東大教授の裏には、文部省の存在があり、つまり政府を知らぬ間に敵に回していたのです。
この状況に力を貸してくれたのが、教育者・福沢諭吉でした。
諭吉はプライベートマネーで私立伝染病研究所を設立し、柴三郎は所長となったのです。
所長となった柴三郎は、伝染病予防と細菌研究にエネルギーを注ぎこみます。
1894年に政府の命令で、ペスト(感染症)が大流行していた香港に向かいました。
そこでペスト菌を発見します。
ペスト菌は、同じ時期にスイス人医師・アレクサンドル・イェルサンが発見しており、ペスト菌発見者となっています。
日本は、幕末に開国してから、何度もペストの流行の気配がありましたが、柴三郎が感染症予防の必要性を政府に説明したおかげで日本でのペストの大流行はありませんでした。
1897年には、柴三郎の意見を取り入れた伝染病予防法も成立しました。
と、順調に研究を続けていた柴三郎ですが、また思わぬトラブルに襲われます。
研究所を内務省管轄に移し、そこから文部省の管轄下の東京大学の一部となってしまったのです。
柴三郎は、かつて役人に無視された経緯もあり大反対しますが、国に逆らうことはできませんでした。
研究所は、現在の東大医科学研究所となっています。
1914年、研究所を辞めた柴三郎は自身で「私立北里研究所(現・社団法人北里研究所)」を作り研究に没頭しました。
そして、福澤諭吉への恩返しするために、福澤の作った慶応義塾大学に医学部を開設し、無給で指導し慶応義塾大学の発展に力を注ぎました。
1923年には、日本医師会を作り、初代会長として務め、日本の医学界に大きな功績を残します。
1931年、脳溢血により79歳で、この世を去りました。
なぜノーベル賞をもらえなかった?
北里柴三郎がノーベル賞をもらえなかった理由について。
ちょっと見ていきましょう。
北里柴三郎は、1889年に世界初の「破傷風菌純粋培養法」を発見。
翌1890年には「破傷風菌の抗毒体」を発見しました。
また血清療法を確立し、感染症を予防するという点にポイントを置きました。
その血清療法を応用したのがドイツ人医師・ベーリングとのジフテリアの血清療法でした。
元々血清療法を確立していた柴三郎は、協力者として連名で論文を発表し、第1回ノーベル生理学・医学賞の候補者なったのです。
しかし、実際に受賞したのはベーリングだけでした。
柴三郎が候補者となったのに、受賞できなかった理由には諸説あって、
・連名での論文発表により柴三郎は補助的なパートナーとみなされた
・当時、共同受賞というシステムがなかった
・有色人種・アジア人への偏見
が、あります。
いずれにしても、柴三郎が受賞できなかった事は残念です。
がしかし、相方のベーリングは受賞後に、「全ては北里のおかげ」とも話していて、柴三郎の功績は世界に知られる事となりました。
残念だけど、素敵なエピソードです。
まとめ
北里柴三郎は、病気の患者を治すことはもちろん、病気を防ぐ予防医学に大きな力を注ぎました。
また日本医学界をリードし、レベルアップさせました。
血清療法により感染症だらけだった世界から人類を救ってくれた偉大な人物です。
ということで、
5分で北里柴三郎について!なぜノーベル賞をもらえなかった?でした。
最後まで読んでいただきありがとうございます^^