フビラン・ハンといえば、モンゴル帝国の第5代皇帝で、中国を治めた元の初代皇帝でもあります。
日本には、あの元寇(げんこう・日本侵攻のこと)を2度にわたって送り込み、日本を支配下に置こうと計画していました。
今回、フビライ・ハンのかんたんな経歴、チンギス・ハンとの違い、関係について、紹介していきますよ。
フビライ・ハン、プロフィール
名前:フビライ・ハン(ふびらい・はん)
出身地:モンゴル帝国
生誕:1215年9月23日
死没:1294年2月18日
享年:79歳 病気
時代:鎌倉時代
かんたんな経歴、何した人、どんな人?
フビライ・ハンは、1215年にチンギス・ハンの4男であるトルイの子として生まれました。
つまりチンギス・ハンは、お祖父ちゃんになるのですね。
青年期の活躍は不明なことも多く、謎に包まれています。
が、祖父のチンギス・ハンが広げた領土をさらに拡大をさせ当時世界の25%もの陸地を支配していたのですから、その権力は圧倒的な強さだったことがわかります。
兄・モンケが第4代皇帝の座につくとフビライ・ハンは、南側の中国方面の領土の支配を任され征服しどんどん力を付けていきました。
モンケが急死すると、モンケの息子たちや自分の兄弟たちと後継者争いを繰り広げますが、1260年に見事フビライ・ハンが第5代皇帝の座に就きました。
そして、南宋(現在の中国)を支配下におきたいと考えました。
しかし、これまでに攻めてきた国と比べ水田や堀が多くモンゴル帝国の売りである騎馬隊が十分な力を発揮できずに、何年も苦戦していたのです。
1267年には、首都を大都(現在の北京)に遷し、1271年には、国の名前を中国風の「元(げん)」に改めました。
そんな中で、ヨーロッパの冒険家マルコ・ポーロと出会い、日本が黄金に溢れている国であることを知り得ます。
また、その南宋に金や銀を輸出していたのが日本であり、南宋は、日本から得た金銀を軍事資金に替えて、武力を強化していることがわかると、日本と南宋を攻め滅ぼそうという計画が浮上したのです。
そうバイタリティー溢れるフビライ・ハンでしたが巨大なモンゴル帝国においても、日本を攻撃するのにそれなりに資金も兵力も必要です。
まずは、南宋と国交のある国々をすべて支配下においていくという方法でした。
が、日本とは海を隔てているためにそう簡単に支配下におくことが出来なかったのです。
なんとフビライ・ハンは日本に計6回も「仲良くしようよ!返事くれなきゃ攻めちゃうよ」といった内容の国書を持たせた使者を送りますが、何れも日本からは、何の返事もありません。
つまり大国であるモンゴル帝国なのに、日本にずっと無視されたのです。
さて、無視を続けられたのであれば、予告通り日本を攻めます。
これが、日本史上最大のピンチとされた日本侵攻、「元寇」です。
日本への1度目の攻撃は1274年の10月、2度目の攻撃は1281年の5月下旬から8月上旬です。
モンゴル軍は圧倒的な強さを誇りましたが、例年日本を襲う台風の時期と重なったために、当時も暴風雨(神風)が吹き荒れ、日本を撤収することとなりました。
その後も何度となく日本侵攻は計画されますが、実現されませんでした。
晩年は、フビライ政権に反発する者も現れますが不安要素を取り除いて、孫に政権を譲り1294年に病気でこの世を去りました。
チンギス・ハンとの違い、関係は?
フビライ・ハンと似ている名前の人物の一人にチンギス・ハンがいます。
偉大な人物に対して、大変失礼ながら混乱しそうになりますが、二人ともモンゴル帝国の人です。
チンギス・ハンの孫がフビライ・ハン、つまりフビライ・ハンのおじいちゃんがチンギス・ハンです。
祖父・チンギス・ハーンは、歴史史上最大のモンゴル帝国を作った人です。
政治や軍事のしくみを強化し、モンゴル民族を統一しました。
そしてブビライ・ハンは、チンギス・ハーンの作った国をより強くし、世界征服を目指していました。
当時イギリスに次ぐ面積を統治し、イギリスは世界のあちこちを支配下に置いていましたが、モンゴル帝国は陸続きで統治していたことから、イギリスとはちがった魅力も感じます。
まとめ
日本を襲った元寇で有名なフビライ・ハンですが、当時、イギリスに次ぐ面積を統治していたなんてその圧倒的な強さに驚きです。
そして、日本にとって暴風雨(神風)は、とてもラッキーな出来事でした。
ヨーロッパ人のマルコ・ポーロの意見に耳を傾けたことなど、世界征服実現のために新しい事へのチャレンジを続けた好奇心旺盛な人物だったに違いありません。
以上、
フビライ・ハンとはどんな人物?チンギス・ハンとの違い、関係は?でした。
最後まで読んでいただきありがとうございます^^