鎌倉時代

新田義貞を5分で!鎌倉攻めのルートや成功の秘訣?子孫は残っているの?

新田義貞(にったよしさだ)といえば、鎌倉幕府をほろぼした武将ですね。

大活躍するも、武士は出世できない政治「建武の新政」のせいで、つらい思いをしてきました。

今回、新田義貞のかんたんな経歴鎌倉攻めのルートや成功の秘密子孫は残っているのかについて、紹介していきますよ。

 

新田義貞、プロフィール

新田義貞公肖像

新田義貞(にったよしさだ)
正式名 源義貞(みなもとのよしさだ)
出身地 上野国(現在の群馬県)
生誕 1301年(正安2年)(推定)
死没 1338年(延元3年)8月17日
享年 38才
時代 鎌倉時代

 

何した人?どんな人?

新田義貞は、鎌倉幕府をほろぼした武将です。

室町幕府を開いた足利尊氏のライバルとされた武将ですが、尊氏にはほとんどやられっぱなしだったそうです。

ここでは、新田義貞のかんたんな経歴を紹介していきます。

 

かんたんな経歴

田義貞は、上野(こうずけ・群馬県)の新田荘(にったしょう)を支配していました。

そんなとき、鎌倉幕府から高い税金を求められていて、不満がたまり、幕府と対立しました。

 

そこに護良親王(もりよししんのう)から「鎌倉幕府をたおせ」というよびかけが届きます。

義貞が鎌倉幕府をたおそうと準備すると、幕府に不満をもつ武士がぞくぞくと集まり、20万もの大軍ができました。

そして義貞軍は鎌倉へ攻めこみ、幕府をほろぼすことに成功したのです。

 

かし、大活躍、大手柄をあげたにもかかわらず、義貞は後醍醐天皇の「建武政権(けんむせいけん)」のせいで出世できませんでした。

「建武の新政」は、天皇中心の政治で、貴族や公家を出世させて、武士たちは出世できないものでした。

そんな政治に、足利尊氏が反乱をおこすと、義貞は足利尊氏を倒すように命令されます。

「尊氏をたおせば、さすがに出世できるだろ」と考えた義貞は、戦に向かいました。

しかし敗北。

 

その後も、湊川(みなとがわ・兵庫県)で、ふたたび尊氏軍と戦うのですが、連続で敗れています。

さらにその後、後醍醐天皇のまさかの裏切りが入ります。

義貞を裏切って、尊氏と仲直りをしたのです。

義貞は越前(福井県)へのがれて、足利軍と戦いつづけたのですが、戦死しました。

 




鎌倉攻めのルートは?成功の秘訣は?

倉攻めの成功の秘訣は、ルートが良かったとのことです。

ちょっと紹介してみます。

 

田義貞は最初、鎌倉幕府をたおそうと、一気に正面から攻め込もうとしました。

しかし、幕府に到着するまえに、切通し(きりどおし・山を切り開いて作った道)で、幕府軍に敗れてしまうのです。

この切通しは、幕府の鉄壁の守りなのです。

 

そこで、義貞は、守りの薄い、稲村ヶ崎(いなむらがさき)から回って攻めることにしました。

この稲村ヶ崎は、海で、ふだんは潮が満ちていて通れない場所なのです。

そこを、潮が引いたときに回って、そのまま一気に鎌倉幕府に攻め込んだのでした。

そして鎌倉幕府をほろぼすことに成功したのです。

成功の秘訣はなんといっても、このルートが良かったからなのです。

 

なみに、この時の有名な逸話。

稲村ヶ崎を通るとき、義貞が刀を海に放り込み竜神に祈ったことで、潮が引いたという伝説があるのですよ。

 




子孫はのこっている?

田義貞の子孫は現代まで続いているのでしょうか。

これは、現代まで血はつづいているようです。

 

しかし、息子の義宗(よしむね)、孫の貞方(さだかた)、曾孫の貞邦(さだくに)は、共に反乱の罪で処刑されていて、直系は断絶しています。

ただ、孫の貞方の子供・貞政(さだまさ)は、姓を「堀江」として、北条氏につかえました。

この貞政(さだまさ)は庶子(正式な婚姻関係にない両親から生まれた子)でした。

 

義貞、義宗のやしゃご(孫の子供)は「中村」を名乗り、伊達氏に仕えました。

一族であった岩松満純(いわまつみつずみ)は義宗の子と自称しています。

またその家臣だった横瀬氏(よこせし)も新田義貞、義宗の子孫を自して、明治維新後に姓を「新田」に戻しています。

 

この後、岩松氏が新田氏の嫡流(ちゃくりゅう・直系の血筋)と認められて華族になりました。

新田義貞の血はまだ現代にも生き続けているんですね。

 

 

まとめ

新田義貞を五分で!鎌倉攻めのルートや成功の秘訣?子孫は残っているの?でした。

新田義貞について、かんたんにまとめると、

・鎌倉幕府をほろぼした

・鎌倉攻めでは、稲村ヶ崎から攻めるというルートがよかった

・足利尊氏と対決するも、ことごとく敗れた

・現代まで子孫はつづいてる!

 

最後まで読んでいただきありがとうございます^^

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りょーま(管理人)
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POSTED COMMENT

  1. 10歳歴史の神 より:

    家康も新田義貞の子孫と言われてるらしいです

  2. 諏訪みどり より:

    新田義貞の生まれた家といわれた家が群馬県世良田にあり、能の舞台や祇園祭りは凄くて思い出します。
    私の先祖は新田義貞の右腕になって働いたときいています。私の旧姓は守下です。どの位の家来か分かりませんが気になります。足利尊氏と義貞は幼少の頃遊んだとか。
    義貞が負けた時、家来も隠れて守下になったとか。

    • りょーま(管理人) より:

      それはすごいですね!

      「右腕」であったとなると、もしかしたらご先祖様は名の知れた偉人だったのかも知れませんね!

  3. 今井孝 より:

     「新田義貞」に関わりのある、「新田(のちの今井)惟氏」という者がおりますので、ここで是非とも紹介させていただきたく存じます。
     この人物は新田義貞の祖父で第6代当主新田基氏の弟にあたります。新田基氏が新田家第6代当主になってから惟氏は「今井」と称し、今井郷(群馬県伊勢佐木市境西今井)の領主となっていました。
     さて、『群馬伝説集成5 伊勢崎・佐波の伝説』(あかぎ出版)によりますと、今井惟氏の子「今井惟義」とその子「今井清義」は、新田義貞に伴って足利尊氏の軍勢と越前国藤島(福井県藤島市)で戦っていました。総大将義貞が藤島の燈明寺畷(なわて)で討死にしてからは、今井惟義が子の今井清義を呼び寄せて、「我が身は義貞公とともに死するが、お前は領地今井郷で、討死した義貞公をはじめ、新田一族の菩提を弔え」という命を受けることになります。この命により清義は「浄蓮」と名乗る僧侶となり、今井郷で村人達の援助を受けながら新田一族の菩提を弔う生活を続けて、「浄蓮寺」の開山に至りました。
     今井家の家系図によりますと、その後は浅間山噴火の被害に遭うなどしたことにより、今の東京都青梅市に一族で移り住んでいます(現今井地区)。その後は上杉家の家臣となり、数世代がその地で暮らしました(菩提寺は恐らく青梅市今井2丁目にある正福寺と思われますが残念ながら史料は2次大戦の戦火で消失)。現存している家系図では1438年に上杉憲実から上州平井の城にて今井茂義が忠戦したとのことで、東京都豊島区駒込に地を賜ったと出ています。翌年駒込に「妙義神社」を興したとも出ています。さらにその後、駒込村戸長をしていた今井岩五郎は明治9年に「仰高小学校」を設立。明治30年代に自治功労者として叙勲の栄に浴しています。残念ながら第二次大戦の戦火に遭い、またGHQの命により、駒込の土地を明け渡さなければなくなり、その地を離れることになりました。転々としながら、先細りしながらもいまも新田の血を引く者は生きながらえております。(平成18年に豊島区教育委員会が駒込駅前の子育て地蔵尊に、新田家と今井家との関わりについて碑を建ててくれています。)長々とした紹介文になってしまいました。最後までお読みくださり、有り難うございました。

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