安土桃山時代

加藤清正ってどんな人物?死因や子孫、井戸のパワースポット説?

加藤清正(かとうきよまさ)といえば「熊本の雄」として有名で、豊臣秀吉の親戚だと言われていて、絶大な人気を誇る戦国武将です。

今回、加藤清正のかんたんな経歴死因子孫について井戸のパワースポット説について紹介していきますよ。

 

加藤清正、プロフィール

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加藤清正(かとうきよまさ)
出身地:尾張国愛知郡中村村(現・愛知県名古屋市中村区)
生誕:1562年6月24日
※1562年7月25日という説もあり。
死没:1611年8月2日
享年:49歳(不明)
時代:安土桃山時代‐江戸時代前期

 

何した人?どんな人?

知勇を併せ持つ名将・加藤清正は、肥後国熊本藩祖として有名ですが、なんと彼は江戸城・名古屋城・熊本城など日本各地にあるお城の築城にも関わっており、「築城の名手」としても知られています。

ここでは、加藤清正のかんたんな経歴を紹介していきます。

 

かんたんな経歴

藤清正は、尾張(愛知県)で刀鍛冶を営んでいた加藤清忠と、鍛冶屋清兵衛の娘・伊都とのあいだに生まれました。

清正の父は、彼が生まれた2年後に亡くなっており、母と共に津島(愛知県)へと移り住むこととなりました。

彼の母は非常に教育熱心であり、まだ幼い清正を妙延寺へと通わせ、様々なことを学ばせたそうです。

 

加藤清正と羽柴秀吉は遠い親戚だったこともあり、羽柴秀吉が治める近江・長浜城(滋賀県)へ行き、秀吉の小姓として仕えることになります。

秀吉の母と、加藤清正の母は、いとこだったのです。(もっと遠い親戚だという説もあるようですが…。)

 

正は、もともと幼い頃からたくましい体つきをしており、しかも教育熱心だった母・伊都によって妙延寺にて勉学を学んでいたため、この年齢では珍しい体力と知恵を持っていました。

さらに武芸にも秀でていたため、このころ人質として匿われていた黒田官兵衛の息子・黒田長政ともすぐに仲良くなり、交流を深めていったと言います。

 

加藤清正は、秀吉の数少ない親戚ということもあり、子どものいなかった秀吉の正室・ねねからもたいへん可愛がられ、将来を期待されていたと言います。

元服(成人の儀式)を果たした清正は、1581年の「鳥取城攻め」、1582年の「備中・冠山城攻め」、1582年の「山崎の戦い」など、様々な戦で功績を挙げました。

1583年には、「賤ヶ岳の戦い」にて、太刀や槍を片手に柴田軍勢に向かって突撃し、敵将をつぎつぎと討ち取り、羽柴秀吉より「賤ケ岳の七本槍」の1人として称えられました。

その時、3000石の領地を与えられています。

 

1586年、豊臣秀吉は天下統一のために、九州で最も力のある島津氏をたおそうと考えます。

そのとき、清正も戦に参加しています。

そして、肥後国(熊本県)に佐々成政が付いたのですが、失政により改易され、佐々成政に代わり、加藤清正が付きました。

このとき、なんと195000石が若干28歳の加藤清正のものとなり、隈本城(現・熊本城)を居城とする大出世を果たしたのです。

 

出世を果たした清正は、優れた政治手腕を見せました。

田麦の特産品化を目指して南蛮交易の決済に当てるなど、農業行政で実績を挙げてゆき、昔から得意としていた治水以外の商業政策にも取り組むなど、良策を次々と実行していったのです。

しかし、豊臣秀吉が死去すると、徳川家康と仲良くするようになります。

 

1600年の関ヶ原の戦いでは、黒田官兵衛らと共に東軍(家康)に付きます。

宇土城(うどじょう・熊本県)や柳川城(やながわじょう・福岡県)などを攻略し、西軍の九州勢をガンガン撃破していったのです。

この大活躍が、家康に認められ、52万石の領主となりました。

 

1610年、徳川家の名古屋城をつくるのに協力し、清正が構築した名古屋城の天守台は今でも見ることができます。

清正は徳川家康に従う一方で、豊臣軍への忠誠も忘れておらず、1611年3月には二条城にて徳川家康と豊臣秀頼の会見を取り持つなどの和解を実現させたという史料が残っています。

しかし、その後、船内で高熱に見舞われ、熊本城にて亡くなったそうです。

 




死因がナゾすぎる?

加藤清正の死因が謎だという説について。

清正の死因について、

・家康に毒殺された説

・性病(梅毒)で死んだ説

が、あるのです。

 

ちょっと紹介していきます。

1611年6月24日に熊本城で亡くなった加藤清正ですが、彼は亡くなる前に徳川家康と豊臣秀頼の和解のために尽力していたと言います。

1611年3月、清正は秀頼(ひでより・秀吉の子)の住む大阪城を訪れ、彼に付きそって京へ入りました。

京にある二条城で、徳川家康と会見があったのですが、このとき毒殺を恐れた秀頼は、出された食事を食べたフリをして済ませたのです。

 

これを見た家康は、別の部屋で控えていた家臣にまんじゅうを食べさせました。

それで安心した加藤清正・浅野幸長・池田輝政らにも食べさせたそうです。

しかしその後、まんじゅうを食べた家臣をはじめ、料理を食べた加藤清正・浅野幸長・池田輝政の4名が2年以内に亡くなったのでした。

 

二条城での会見を終えた清正が、熊本へ帰るとき、船中で発熱し、船が熊本に着くころには、舌が麻痺してしまい喋れなくなっていました。

彼は発熱したとき、「寿命が尽きたようだ。十の内十一、死ぬだろう」と話しており、彼が宣言したとおり、1611年6月24日午前2時ごろ、息を引き取ったそうです。

このことから、家康が食事に遅延性の毒物を仕込んでいたのではないかという説が学者たちのあいだで飛び交っていました。、

 

かし、他の3名の死は、別の原因だといわれています。

実は、清正・幸長・輝政の3名は、過去に性病にかかっているのです。

おそらく朝鮮遠征のとき、遊女から感染したのではないかと言われています。

もしも梅毒(ばいどく)だった場合、死ぬまでにおよそ10年かかりますので、彼らの死とバッチリ合点しているのです。

これは、いまさら現代で明かすのはむずかしいでしょうね。

加藤清正の死因はなぞ、よくわからないとされているのです。

 




子孫は続いてる?

藤清正の子孫は現代まで続いているのかについて。

これは、現代まで続いているといって良いでしょう。

しかし本家の血筋は断絶しています。

 

正の息子・忠広(ただひろ)には2人の息子がいました。

ですが、長男・光広(みつひろ)は蟄居処分(ちっきょしょぶん・自宅謹慎)となり、その翌年に病死し子供はいません。

次男の正良(まさよし)は、父・忠広が亡くなると、父の後を追うように自刃しています。子供はいません。

清正には娘が1人いました。

彼女は徳川家康の10男・頼宜(よりのぶ)のもとへと嫁いだのですが、夫婦仲は良好だったものの、子どもに恵まれなかったようです。

 

は、なぜ加藤清正の子孫が存在するのか。

清正の息子・忠広は、配流先の丸岡市(福井県)にて、男の子と女の子を授かっているのです。

この2人の子どもたちによって加藤家の血筋がいまもなお、現代に受け継がれているのです。

 




井戸のパワースポットってなに?

藤清正の井戸のパワースポットってなに?について。

「清正の井戸」という有名なパワースポットは、東京都渋谷区の「明治神宮」にあります。

「清正の井戸」の写真を、スマホやタブレット、パソコンの待ち受けにすると、運気がググッとあがるのだそう。

そして幸せをゲットすることができると言われています。

ぜひ待ち受けにしてみてはいかがでしょうか。(・∀・)

どぞ。(・∀・)

well

ここは加藤清正が一生懸命に掘ったから「清正の井戸」なんて呼ばれているそうです。

明治神宮のある場所に、肥後藩主・加藤家の別宅があったのです。

清正自身がこの場所に住んでいたかどうかは、まだ明らかになっていませんが、彼の息子・忠広が住んでいたことは間違いないようです。

 

こがパワースポットと呼ばれる理由。

それはこの井戸が、富士山の気の流れである「龍脈(地中を流れる気のルート)」が明治神宮にあり、その気を含む湧水が溢れ出ているからなんだそうですよ。

 

 

まとめ

加藤清正を5分で!死因や子孫、井戸のパワースポット説?でした。

加藤清正について、かんたんに語るポイントは、

・秀吉の数少ない親戚であること

・数々の功績を残し、肥後藩祖として、人々の生活を豊かにしていったこと

・徳川家康と豊臣秀頼の会見を取り持つも、同年に謎の死を遂げていること

・本家の血筋は途絶えてしまったが、分家によって今も尚、加藤家の血筋が続いていること

・パワースポット説は真実だった!

 

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