金栗四三(かなくりしそう)といえば、マラソン選手ですね。
三島弥彦とふたりで、日本で初めてオリンピックに出場した人として有名で、「マラソンの父」とも呼ばれました。
今回、金栗四三のかんたんな経歴、オリンピックのエピソードや偉業について、紹介していきますよ。
金栗四三、プロフィール
金栗四三(かなくりしそう)
出身地:熊本県玉名郡春富村(現・和水町)
生誕:1891年8月20日
死没:1983年11月13日
享年:92歳明治時代-大正時代-昭和時代
かんたんな経歴、何した人どんな人?
金栗四三は明治24年(1891)に、熊本県で生まれました。
実家は酒屋で、彼は8人兄弟の7人目でした。
小学校への通学路が6キロあり、小さいときから毎日往復12キロを走って通いました。
このときからマラソン選手としての強靭な足腰が作られていたのです。
中学生になると、学校内の寮で生活しました。
成績がとても良くクラスでは1番、2番で、特待生として授業料が免除されていました。
高校生になると、当時の校長先生が金栗のマラソンの才能に驚きます。
すると金栗の才能を開花させるために力をいれました。
そうしてどんどん強くなっていった金栗は、オリンピックの国内予選で2時間32分45秒を記録します。
なんとこれが当時の世界記録よりも27分早かったのです。
そして彼は日本人初のオリンピック選手となりました。
初めてのオリンピックでは、猛烈な暑さで選手が半数リタイアする、超過酷なレースになりました。
金栗さんも日射病となりリタイア。
しかもリタイア宣告しないで勝手にいなくなったため、現地では「消えた日本人」として当時話題になりました。
金栗はこのリタイアを生涯悔やみました。
22歳ころ、医者の娘・春野スヤと結婚しました。
そのころから地理の教師としてはたらき、マラソンもさらにがんばりました。
25歳ころ、2度目のオリンピック出場を狙います。
このころの彼は、年齢やコンディションが1番いいときでした。
ダントツの優勝候補だったのです。
しかし、このベルリン大会は第一次世界大戦のせいで中止になります。
33歳、フランスのパリで開催するオリンピックに出場。
このときはすでにマラソン選手としてのピークが過ぎていたせいで、途中リタイア。
この大会で、改めて世界のレベルの高さに驚きました。
その後、日本のスポーツの発展に力を尽くすことを決意します。
女子スポーツを日本に広めたのも金栗四三です。
現在もやっている「箱根駅伝」をつくったのも彼です。
マラソンについては数々の大会をつくりました。
生涯にわたりマラソン、そしてスポーツに関わりました。
金栗四三はマラソン界では知らない人はいない、本物のレジェンドなのです。
92歳、熊本県のふるさとで生涯を終えました。
エピソードや偉業
日本人初のオリンピック選手である金栗四三ですが、どんな偉業やエピソードあるのでしょうか。
ちょっと紹介してみますよ。
日本で初めてオリンピックに出場した
これこそが金栗四三の代名詞です。
彼は三島弥彦と共に、1912年のストックホルムオリンピックに、日本人として初めてオリンピック出場を果たしました。
その時の写真。
旗を持っているのが三島弥彦で、金栗四三はプラカードを持っています。
でも顔が旗で隠れちゃってますね。(・∀・)
日本で初めて運動靴をつくった
当時日本のランナーは、足袋(たび)みたいな留め金具をつかったものを履いていました。
「運動靴」というものがなかったのです。
金栗はオリンピックで外国人の、ゴムを底にひいている靴をみて「あれがいい!」と思いました。
帰国後、足袋屋に頼みました。
そして留め具ではなく紐で、ゴム底の「金栗足袋」が開発されました。
日本のマラソンランナーはみんなこれを履くようになりました。
女子スポーツを発展させた
オリンピックで世界を知った金栗は、世界のスポーツのレベルに驚きました。
特に、ヨーロッパの女子スポーツが盛んなことに注目し、日本で広めることにしました。
将来「お母さん」になる女子生徒の体力を鍛えることは、国の重大事項であると考えたのです。
女子学校に就職すると、当時ではありえなかった「女子テニス大会」や「女子連合競技大会」を開催します。
学校では、スポーツの重要性を教え、生徒と一緒にスポーツをしました。
さらに「関東女子体育連盟」なるものをつくりました。
彼がいなかったら、日本の女子スポーツは世界に遅れをとっていたかもしれません。
駅伝をつくった
日本のスポーツのために力を尽くした彼ですが、たくさんのマラソン大会をつくっています。
チームでマラソンをする「駅伝」をつくったのも彼です。
特に有名なのが、「箱根駅伝」ですね。MVP選手に金栗四三杯が贈られます。
「富士登山駅伝」でも優勝チームに金栗四三杯が贈られます。
他にも「金栗」の名をつかった大会がいくつもあります。
現在もあるマラソン大会のほとんどの根源は金栗四三です。
「消えた日本人」
日本人初のオリンピック選手ですが、その初の大会はリタイアしました。
マラソンの参加選手は60人超でしたが、猛烈な暑さで半数がリタイア。
金栗四三もそのひとりでした。
しかし、彼の場合ちゃんとした棄権の届けがでていなかったのです。
レース中、金栗は異常な感覚の疲れを感じました。
がむしゃらに気合で前に進もうとしますが、体が思うように動かず走れなくなります。
すると26.7km地点で、コースからはずれて林の中に消えてしまったのです。
地元の人に助けられた金栗は、大会本部にリタイアと言わず、そのまま宿に帰ってしまいました。
そうして開催国スウェーデンでは「消えた日本人」「消えたオリンピック選手」として有名になりました。
金栗は生涯、このリタイアを悔やみました。
時がたち、スウェーデンのある関係者がオリンピックのことを調べていると、ゴールも棄権もない変な記録をみつけました。
そして「消えたオリンピック選手」の謎に迫るため、70歳を過ぎた金栗さんの家に取材にきました。
これで長年の謎が解き明かされ、スウェーデンではとても話題になりました。
数年後、スウェーデンのオリンピック委員会から金栗四三に、招待状が届きます。
75歳の金栗四三は、大観衆が見守る中10mほどを走り、用意されていたゴールテープをきりました。
すると場内アナウンスで
「日本の金栗選手、ただ今ゴールイン。記録は通算54年と8月6日5時間32分20秒3。これをもちまして第5回ストックホルムオリンピック大会の全日程を終了といたします」
と流れました。
金栗四三は、
「長い道のりでした。その間に妻をめとり、子ども6人と孫10人ができました」
とコメントしました。
当然ながらこの記録は、世界で最も遅いマラソン記録なりました。
リタイアした次の日の日記から悔しい思いが伝わってきます。
「大敗後の朝を迎う。終生の遺憾のことで心うずく。余の一生の最も重大なる記念すべき日になりしに。しかれども失敗は成功の基にして、また他日その恥をすすぐの時あるべく、雨降って地固まるの日を待つのみ。人笑わば笑え。これ日本人の体力の不足を示し、技の未熟を示すものなり。この重圧を全うすることあたわざりしは、死してなお足らざれども、死は易く、生は難く、その恥をすすぐために、粉骨砕身してマラソンの技を磨き、もって皇国の威をあげん」
金栗四三、ストックホルム・マラソン翌日(7月15日)の日記より
まとめ
ということで、
3分で金栗四三について!オリンピックのエピソードやその生涯でした。
・金栗四三は日本人初のオリンピック選手
・「消えたオリンピック選手」として有名
・日本のスポーツの発展に力を尽くし、大きく貢献した
最後まで読んでいただきありがとうございます^^