明治時代

伊藤博文とはどんな人物?超女好きエピソード、暗殺された場所や犯人は?

伊藤博文(いとうひろぶみ)といえば、内閣制度を作り、初代内閣総理大臣となった教科書に必ず登場する、明治期の重要人物ですね。

今回、伊藤博文のかんたんな経歴超女好きエピソード暗殺された場所や犯人は?について、紹介していきますよ。

 

伊藤博文、プロフィール

名前:伊藤 博文(いとう ひろぶみ)
幼名:利助(りすけ)
出身地:周防国(すおうのくに・現山口県)
生誕:1841年10月16日
死没:1909年10月26日
享年:69歳(暗殺)
時代:江戸時代~明治時代

 

かんたんな経歴、何した人?どんな人?

1841年、伊藤博文(いとうひろぶみ)は、農民の父・林十蔵と、母・琴子の長男として、現在の山口県である周防国に生まれました。

家は貧しく破産してしまい、14歳の頃に父・十蔵が伊藤家に養子入りし、博文も農民から足軽(下級武士)の身分となりました。

 

1857年、相模(現・神奈川県)での江戸湾(東京湾)の警備の仕事を任されたときに、長州藩氏の来原 良蔵(くるはら りょうぞう)と出会い、吉田松陰(よしだしょういん)松下村塾で学び始めたのです。

すぐに才能を開花させ、1859年には木戸孝允(きどたかよし)に従い、長州藩の江戸屋敷に住みます。

同年、「安政の大獄」で吉田松陰が処罰されると、尊皇攘夷運動に加わりながら、海外への憧れを強く抱くようになりました。

 

1863年、井上馨(いのうえかおる)の推薦を受けて、長州五傑(ちょうしゅうごけつ)とともにイギリスへと旅立ち、英語からマナーまであらゆることを学びました。

そしてイギリスの産業や文化、軍事力の発展に感激し、日本を開国させようと決意したのです。

 

その後、長州藩VSイギリス・フランス・オランダ・アメリカ連合艦隊の下関戦争の知らせを受けてすぐに帰国し、圧倒的な力で負けた長州藩を少しでも有利に導くために、学んだばかりの英語で和平交渉を行いました。

明治を迎えると新政府メンバーとして、これまでの活躍と英語力を認められ参与や外国事務局判事など重要なポストで活躍します。

初代の兵庫県知事にもなりました。

岩倉使節団など数回の留学を経験し、貨幣法の制定や、鉄道事業などに力を注ぎ、内閣制度の創設や大日本帝国憲法の制定の中心人物となり、政治家としての才能をさらに発揮していきます。

 

して、1885年12月初代内閣総理大臣となったのです。

第5代、第7代、第10代と4回も内閣総理大臣、立憲政友会(りっけんせいゆうかい)の総裁も務めました。

その間に日清(中国)戦争や日露(ロシア)戦争のリーダーとして日本を勝利へと導いてくれました。

 

1905年、初代の韓国統監となり、朝鮮半島の政治体制を整えようとしていましたが、1909年に朝鮮の独立を目指していた、安重根(アンジュウコン)に暗殺され、69歳で亡くなりました。

 




暗殺された場所や犯人は?

藤博文が暗殺された場所と犯人について。

これは、中国のハルビン駅で、安重根(あんじゅうこん)に暗殺されました。

 

ちょっと紹介してみます。

1909年10月、満州(現・中国北東部)と朝鮮問題について、ロシアの財務大臣と会議をするためにハルビンを訪れていました。

するとハルビン駅で韓国人の安重根に銃弾3発を撃たれ暗殺されたのです。

ハルビンは、中国黒竜江省の政治・経済の中心地です。

様々な説がありますが、安重根は大韓帝国の独立を目指しており、日本による支配を阻止しようとして、暗殺計画を立てたとされています。

しかし、伊藤は韓国併合に関して反対派でした。

よってこの暗殺は安重根の勘違いとも言われています。




韓国併合に反対してた?

藤博文は、韓国併合に反対していました。

理由は、ちょうど日露(ロシア)戦争で多額のお金を使ったばかりだったので、経済的に余裕がないと判断したのです。

諸説ありますが、ロシアが次第に強大な力をつけて朝鮮半島を支配下におき、日本を攻撃してくることはすぐに予想できたので、日本を守るために出来たばかりの大韓帝国(現・韓国、北朝鮮)を近代化へと導きロシアから守る必要があったのです。

そこで、これまでの博文の政治スキル高く評価され、1905年に伊藤博文は初代韓国統監(かんこくとうかん)に就任しました。




超女好きだったエピソード?

藤博文は、4回も内閣総理大臣を務めるなど、政治家として大変有名ですがもっと有名なことは、超女好きだったという事でした。

博文は、最初の妻に松下村塾時代の先輩・入江九一の妹・すみ子を迎えていますが、度重なる伊藤の浮気と、後の妻となる梅子との間に子どもが出来たことから別れています。

再婚した妻・梅子は、博文がどんなに芸者と遊んでも寛大な心で受け止め、夫婦仲も良好だったと言われています。

 

博文は、具合が悪くても両隣にはいつも芸者がいて、付いたニックネームは「ほうき」でした。

由来は、女を掃いては捨て、掃いては捨てを繰り返したからだそうです。

コロコロと女を変えた博文を唯一怒ったのが明治天皇でした。

しかし、明治天皇に怒られても女好きは治す気もなく、正真正銘の女好きだったのでした。

 

まとめ

日本の政治を語る上で必ず登場する伊藤博文は、明治期に諸外国の文化を上手く取り入れてくれて、日本を近代化へ導いてくれました。

韓国併合については反対派だったのに、最期は暗殺されてしまったことがとても残念です。

また政治家の顔とは別に超女好きだったことは、「英雄色を好む」を地で行く偉大な人物だったことがうかがえます。

 

ということで、
伊藤博文とはどんな人物?超女好きエピソード、暗殺された場所や犯人は?でした。

 

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